カメも歩けば城に当たる… 城跡酔夢譚

歩みののろいプロカメが
五畿八道を一歩ずつ
歩いて廻る城の跡、つわものどもが夢の跡
はてさて何城登れるか
千里の道も一歩から始まることを信じよう〜♫

写真集「城 壁 〜石積みの肖像」は初版完売!!!
増刷がきまりました。
2017年9月15日 第2刷となります
(Amazonまたは一般書店から取り寄せ)
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速報 〜「城壁カレンダー2018」発売開始

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城壁 〜石積みの肖像カレンダー2018
4月28日発売の写真集「城壁 〜石積みの肖像」はおかげさまで
8月末で初版完売となりました。
引き続き9月15日より第2刷をお届けいたします。
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運びとなりました。
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引き続き、写真集「城壁 石積みの肖像」もよろしくお願いいたします。
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第96景 〜名古屋城

尾張名古屋は城で保つ、というのは歌の文句、伊勢音頭の歌詞だ。
正調の伊勢音頭を聞いたことがなくても、このフレーズはきっとご存じのはず。
今も名古屋の真ん中に巨大天守がそびえ、日本三大名城に数えられる名古屋城。
では、この名城は、いつ、誰が、何のために、どうやって建てたのか?
実はそこを押さえておくと、戦国史の一頁がストンと手の内に収まるのだ。
そんなことを想いながら歩いてみた桜満開の名古屋城の巻である。
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名古屋城 (大天守 復元): 愛知県名古屋市中区本丸1-1→Map  日本百名城 No.44
別名:蓬左城、金城 築城:慶長15年 築城主:徳川家康 梯郭式平城 (撮影2017年4月)

いつ、誰が?
名古屋城の築城開始は慶長15年(1610年)、築城を命じたのは徳川家康
天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)で石田三成率いる西軍に勝ち、征夷大将軍となった家康
は本拠の江戸城と、その後大御所政治の拠点となる駿府城をともに天下普請で大改修した。
天下普請とは徳川幕府が諸大名に命じて行わせた土木工事のことで、家康に従うという武将
の忠誠心を試し、経済的負担を負わせて力を削ぐという徳川らしい嫌らしい手法のことだ。

何のために? 
関ヶ原後の家康の願いは、ただただ徳川家の繁栄と安泰であり、奪い取った天下を再び奪い
返されないための対策を尽くし続けたと云っても良い。
関ヶ原直後の1601年から十年ほどの間に、膳所城(ぜぜじょう)、二条城、加納城、彦根城、
丹波亀山城、伊賀上野城などをすべて天下普請によって築城または改修させている。
これらの城を俯瞰してみると、これは大坂城をぐるりと取り囲む配置となっている。

当時、大坂城には豊臣秀吉の遺児秀頼がいて豊臣恩顧の大名と共に天下を奪い返しに来る
恐れが充分にあった。 それを押さえるための一連の築城だったが、その仕上げとして万一
包囲網が破られ、西軍が江戸を目指したときこれを東海道で迎え撃つための城。
それが名古屋城だったのだ!名古屋城は江戸を守る最後の防波堤だった!

どうやって?
もちろん名古屋城も天下普請によって建てられたのだが、関ヶ原当時、尾張の中心は清洲
で、清洲城は豊臣恩顧の福島正則の居城だった。
家康はまずはこの煙たい男、正則を安芸(広島)へ移封つまり追っ払って四男松平忠𠮷、
ついで九男義直を清洲へ入封させている。
その後1609年、かつて今川氏の居城で、その後織田信秀が奪い取った那古野城の位置に、
城だけではなく町ごと形成する大事業として名古屋築城を命じたのだ。
普請奉行は当時の築城エキスパートだった佐久間政実、滝川忠征ほか。
豊臣恩顧の諸大名20家が駆り出されている。加藤清正の石垣普請での尽力は有名だ。 
さらに清洲を町ごと移住(清須越し)して、慶長17年(1612年)頃にほぼ完成をみた。
江戸と同じく名古屋の基礎を築いたのは、(好むと好まざるにかかわらず)徳川家康だ!

その後は?

ご存じのとおり家康は悪知恵を最大限に働かせ、大阪の陣で豊臣家を滅ぼし徳川安泰の世を
築き上げた。慶長12年には徳川義直が初代尾張藩主となり、尾張徳川家は御三家筆頭として
威光を放ち十七代で明治維新をむかえている。

天守炎上 
維新後も多くの遺構を残していた名古屋城(当然国宝)だったが、昭和20年(1945年)5月の
米軍による無差別空爆により 大天守、小天守、本丸御殿、本丸御殿などを焼失した。
(一般市民の居住地区になんてことするんだ!!ばかやろうめ)

天守再建 
昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで天守が再建され今に至る。
 2008年より本丸御殿の再建工事が始まり、現在は一部公開中で2018年の完成予定である。 
・・・・・・・・・・・・・・

というようなことを、思い出しながら名古屋城を歩いてみたら如何かな?
単に名古屋の金のシャチホコで有名なお城、天守のてっぺんまで登ったぞ!
ではなく、天守はもちろん堀や石垣の一個まで違った見え方になるかもよ。
と、以上は城歩きカメの勝手な城郭酔夢譚!なので無知、思い違いによる瑕疵については
ノークレームノーリターンでお願い申し上げまする。
特に徳川家に恨みなどはござりませぬ。 
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外堀 
正門からいきなり城内へ入らず、外堀に沿って時計逆回りに一周してみる。
二の丸の石垣が続き桜が美しい!だが城は攻めて見よ、守って見よである。
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北西隅櫓
御深井丸(おふけまる)西北隅に建つ現存の三重櫓。かつての清洲城天守を移築した
とも云われ清須櫓とも。他の城の天守より大きい櫓である。 _RSD0152
鵜の首天守
西の丸と御深井丸の間の細く入り込んだ堀。防衛上の構造構造でこれを鵜の首という。
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西南隅櫓(坤櫓)天守

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大天守橋台
大天守と小天守を橋台で結んだ連結式の天守。
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内堀東南隅櫓

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やはり満開の桜と石垣に惹き付けられる登城だった。
ところで名古屋市では老朽化した天守の 再建計画が進行中で、木造による再建案もある
という。今回ひさしぶりに天守に上がってみて思うに、この巨大な天守の木造再建、
費用対効果の点からもちょっと心配である。
次から次に訪れる多くの観光客を眺めていると、城の構造などほとんど誰も見ていないし、
維持管理費も嵩みそうかな、とは要らぬ心配だが、名古屋のことは名古屋に任せるという、
いつものスタンスでお茶を濁しておこう。

じゃぁ また
 

第95景 〜七尾城

石川県には百名城指定の城跡が二ヶ所。ひとつは加賀百万石の象徴、金沢市の金沢城
もうひとつが能登半島の中心部、富山湾に面した七尾市に遺るこの「七尾城」である。
金沢は仕事や個人的な旅でもう十回以上訪れたが、七尾はかつて一度素通りしただけで、
長いあいだ行ってみたい町のひとつだった。
で、先日、ついに「夏の城旅~2017・第二弾」と勝手に称し、江戸から車を飛ばして七尾
へと向かった。今回は戦国の山城、七尾城への登城記だ!

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七尾城(桜馬場下石垣):石川県七尾市古屋敷町→Map 連郭式山城   日本百名城No.34
別名:末尾城松尾城   築城年:永正~大永年間(1504~28年)頃 築城主:能登畠山氏
                              (撮影2017年8月)
写真は七尾城の紹介では必ず使われる、桜馬場下の五段の石積みである。
以前は同様の写真を見て、城跡と云うより日本庭園などによくある、小振りの石を使った 
石垣にも見えたし、東京からのアクセスのこともあり、登城を先送りにしていたのだ。
しかし、その後七尾城について諸々読むうちに、待ちきれない思いのこの頃であった。
その七尾城についてキーワードを上げておくと、
五大山城・能登畠山氏・七尾城の戦い・上杉謙信……などである。
ではそのあたりからひとつずつ見ていこう。

五大山城 

春日山城、月山富田城、観音寺城、小谷城、そして七尾城の五城をもってそう呼ぶらしい。
しかし、この三大〜とか五大〜というのは基準も曖昧で一種の符牒と考えても良いだろう。
だからといって七尾城の価値が下がるわけではない。
城は急峻な七つの尾根にわたって築城されていることから「七尾」の名がある。
往時は標高300mほどの山頂本丸から2.5km下の山麓部まで曲輪が断続的に連なり、麓には
戦国城下町「七尾」が北の海岸まで続いていた。北陸随一の山城と呼ばれた由縁である。

能登畠山氏

その七尾城を築いたのは能登畠山氏。室町幕府三管領の名門であり、嫡流が管領と河内、
紀伊、越中の守護を、庶流が能登の守護を世襲した。
七尾城も十五世紀後半までは砦のようなものだったが、三代義統(よしむね)が能登に下向し
在国守護となり領国支配が確立し、七代義総(よしふさ)の頃に大幅に拡張された。
義総は応仁の乱で荒廃した都から公家・歌人・僧侶達を連れ帰り能登畠山文化が花開いた。

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本丸跡
標高 305mの本丸跡から、現在の七尾市街と七尾湾、さらに能登半島まで一望できる。
隆盛を誇った畠山氏の領国経営が偲ばれる。
現在、城域は城山と呼ばれ、本丸跡に城山神社が祀られている。
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本丸下の三段の石積み
当時、この地方ではまだ普及していなかった石垣で要所を固めているのも
七尾城の見どころである。本丸下の斜面も高さ2mほどの野面の石積みが
段築状に三段に積まれていてる。
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二の丸跡
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三の丸跡
広大な城域に、二の丸、三の丸、西の丸、調度丸、遊佐屋敷、温井屋敷等の
曲輪が連なる。しかし調査発掘はまだ緒についたばかりで、戦国最大級の山城の
全貌解明にはもう少し時が必要に思えた。
現在七尾城を保全したいという地元ボランティアの方々が、草刈りなどの整備を
続けられているそうで、なんともありがたいことである。
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二の丸と三の丸の間は深い堀切となっている。
急角度の階段で上り下りすることになる。
登城には足元の準備も怠りなきよう!

七尾城の戦い・上杉謙信
七尾城を有名にしているものに「七尾城の戦い」がある。
これは上洛への橋頭堡として、北陸随一の山岳城を奪い取った上杉謙信による
七尾城攻略戦のことだ!上杉対畠山の攻防戦である。
天正四年(1576年)越後の上杉謙信が上洛をめざし、能登へ侵攻。能登の城砦を次々と
落とし、残すところ七尾城のみとなる。
城方の畠山氏は八代義続のころから、跡目争いなどで勢力が衰え、畠山家臣団が支配を
強めていた。派閥争い、十代当主義慶(よしのり)の暗殺、十一代も病没し後継にはわずか
五歳の春王丸。この機を見た謙信の能登侵攻であった。
しかし天然の要害七尾城は簡単には落とせず、最後は城内の親上杉派を懐柔、調略によって
開城 させたのである。能登攻略開始から十ヶ月目であった。
この時、「内応承知」の返事を得た謙信は祝宴を催した。その中秋の名月の夜、謙信が
詠んだ 漢詩が残っている。読み下すと、

霜は軍営に満ちて秋気清し  (霜は軍営に満ち、秋の気配が清々しい)
数行の過雁月三更  (真夜中の月に雁が列を成して飛ぶ)
越山併せ得たり能州の景  (越後と越中だけでなく能登の景色も眺めることができた)
遮莫家郷遠征を憶うを  (故郷の人々は、遠征のこの身を案じているだろうがそれはどうでもよい )

越後、越中と能登の三国を手に入れた謙信の感動が伝わるようで素晴らしい、
とは思うが、確かに出来過ぎた話でもありこれは後世、江戸期に頼山陽が謙信の気持ちを
代弁して書いたという説が有力である。
しかし、そういう概略を知って訪れることで、登城の感動も大きくなるのだ。
かなり端折ってしまったので、詳細については参考にした本を紹介しておこう。
我々素人には分かりやすさが何よりありがたい、
謙信側から見た歴史群像8と最近引き合いに出すことの多い伊東潤作品だ。
 
*   歴史群像シリーズ8「上杉謙信」学研
*「城を攻める 城を守る」伊東 潤 講談社現代新書
Kenshin
参考になれば幸いである。

アクセス
など、まとめ
今回は自分の車で行ったので、山頂近くの本丸駐車場まで一気に登ることができた。
ただ、七尾城に限らず山城のスケールを体感するのは麓から徒歩で登るのが良い。
七尾城歴史資料館からすべて歩くと、往復で3時間近くを要することになる。
機会を見て挑戦してみたい。 

しかし、ここは日本百名城指定の城郭で、スタンプラリーなどを楽しむ老若男女全ての
来城者が支障なく見学できる場でもあるべきだ。
七尾市街から麓まで5km、市内循環バスでは麓の歴史資料館までしか行けない。
(ここにスタンプがあるらしく押すことは可能だ。ちなみに私はスタンプは集めていない)
本丸駐車場までの運行が望まれよう。
素晴らしい城跡なので、多くの方に本丸まで登って頂きたい!!


最後は、例によって、今日の一枚を上げて七尾城の結びとしたい。
やはり五段の石積みからの一枚を
補修、管理をして頂いている地元の方々への感謝とともに…….。

じゃぁ また
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第94景 〜唐沢山城

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唐沢山城(本丸:唐沢山神社):栃木県佐野市富士町→Map 続日本百名城No.114
築城:延長5年(927年)  築城主:藤原秀郷 主な城主:佐野氏   連郭式山城
かつての本丸は築城主藤原秀郷を祀った唐沢山神社となっている。(撮影2017年3月)

三月末のある朝、都心の天気は上々だが、少しモヤが掛かって遠方の見通しは良くない。
行くか、日を改めるか一瞬考えた。目標は栃木県佐野市の唐沢山城(からさわやまじょう)。
「江戸俯瞰」の城と呼ばれ、それが元で徳川幕府の不興を買い 城割り(廃城)となった。
俯瞰、まさに江戸を見下ろす城だったという。たしかに佐野市は都心から80km圏で、
今も標高240mの唐沢山山頂からは東京都心の高層ビル群や、スカイツリーなどが目視
できるという。当時も江戸府内を見下ろすことができ、それが「怪しからん!」と幕府に
睨まれたわけだ。そういうことなら自分もこの目で確かめてみたいと思う。
それから、この唐沢山城は関東の城としてはめずらしく、石垣を多用した築城だという、
さらに、最近読んだ本から、撮りたい写真のイメージもある程度固まっていた。 
そんなわけで、一気に佐野まで駆け抜け、登ってみた、本日はその唐沢山城からの報告だ!
その後「続日本百名城」に選定されたとのことで、喜ばしい限りである!

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*関東七名城のひとつと称された城郭をゆく
東北自動車道を1時間ほど走り、そのまま山頂に近い、いま駐車場とレストハウスがある
蔵屋敷という平地まで車で上った。ここから本丸へ向けて徒歩となる。
登り口の「唐沢城跡碑」からクランク状の食い違い虎口 となり、すぐにこの城の見どころ
「天狗岩」へ登ることができる(予想通り当日の見通しはいまひとつだったが)。
内枡形を過ぎるとすぐに「大炊(おおい)の井」と呼ぶ井戸。さらに大堀切り「四つ目掘り」
が現れ、これはもう明らかに神社ではなく、城の構えであり、気分が一気に高揚する。
 
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くい違い虎口:敵を直進させないよう折れを作り、内側に枡形を持つ出入り口。

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天狗岩からの眺望 :南東方向の視界が開け、かつては物見櫓が置かれた。

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大炊の井:直径9m、山頂付近にあって現在も涸れることなく水を蓄える。

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四つ目掘り:東西を分断する堀切、曳橋が架けられ非常時には通行を遮断。

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*見どころ・関東屈指の石積みを見にいこう
道は神社の参道でもあり整備舗装されているが、本殿まで真っ直ぐ向かわず、帯曲輪から
三の丸、二の丸そして本丸と連郭式に並ぶ郭を見ながら登って行くことをお勧めする。
この辺りには本丸の高石垣はじめ石積みがよく残っている。

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高石垣:本丸南西面を固める高さ8m超の石垣。豊臣氏とつながりの深かった
    佐野(宝衍)房綱の時代に築かれたという。

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南城の石積み:蔵屋敷、武者詰といわれ周囲を石積みで固める。
南城からの眺望も良く、富士山や都心のスカイツリーも見えるそうだ。

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南城下の石積み
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*唐沢山城を描いた「見えすぎた物見」伊東 潤
この短編集の冒頭に収録された「見えすぎた物見」を読んで以来、唐沢山城へ行く機会を
覗っていて、今回やっと叶ったわけだ。ちなみに表題の「城を噛ませた男」は昨年の大河
でも話題だった真田昌幸、名胡桃城事件を題材にした佳作、是非ご一読を!
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「城を噛ませた男」〜伊東 潤(光文社文庫 収録)
「見えすぎた物見」:時は戦国、武田、北条、上杉が覇を争う北関東の地で、
生き抜かなければならない弱小国人領主だった佐野氏主従の悲哀の物語。
その佐野氏の本拠が唐沢山城で、筆頭家老の天徳時宝衍(ほうえん)の知謀、時代を
読む目が、視力の優れた物見(見張り役)、そして眺望の良い唐沢山城に重ねて描かれて
いて、冒頭から一気に引き込まれる。

本丸の唐沢山神社は佐野氏の祖先である、藤原秀郷(俵 藤太)を祀る。
戦国期の佐野氏は康綱、豊綱、昌綱、宗綱の四代に渡り領国を保持してきたが、越後上杉、
相模北条、甲斐武田の台頭により 生き残りをかけて綱渡り的な外交を続けてきた。
一時当主を亡くし北条に支配されたが 、秀吉の小田原攻めの後、宝衍が還俗し佐野房綱
名乗り、佐野領三万二千石 を安堵された。さらに豊臣家臣富田信種が佐野氏を継承した。
房綱は隠居したが、慶長期に入ると、唐沢山城を西国風の石垣を多用した城郭へと改築した。
今に残る石積みはこの時代のものである。 

で、最初にあげた城割りの顛末はと云うと、
慶長七年(1602年)江戸の火災を唐沢山の物見がいち早く見付け、駆け付けた佐野衆により
大火は未然に消し止められた。これに対して城主佐野信𠮷(信種改め)が江戸二代将軍秀忠
から呼び出しを受け、江戸俯瞰を理由に城の破却を申しつけられる。さらにいろいろ難癖
を付けられ改易となり、佐野氏は取りつぶしとなった(徳川のいつもの手である)。
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本日の一枚
佐野家の生き残りに奔走した宝衍房綱が指揮して築かせたという石積みを見たかった!
時の経過を思わせる巨木と、石に差す木漏れ日の印象が事前にあって、そのために
あえて桜開化のまえ、葉が茂る前に登城しここに視線が惹き付けられた。
何か感じて頂けたら幸いである。

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次の石垣写真集へ向けて撮影を継続中!!
また、よろしくお願い致しまする。

じゃぁ また


 






 

第93景 〜観音寺城

浅井氏の山城、近江の小谷城に登った翌日、安土は六角氏の「観音寺城」へ向かった。
安土山と峰続きの観音寺山、またの名を繖山(きぬがさやま)全域にわたって築かれた、
戦国時代最大級の山城である!では早速行ってみよう。

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観音寺城 (平井丸虎口) 滋賀県近江八幡市安土町石寺→Map   日本百名城No.52
別名:佐々木城繖山城 築城年:建武2年(1335年)頃 築城主:六角氏頼   山 城
                          
(撮影:2016年11月)

観音寺城という名は、山頂にある寺、観音正寺(中世は観音寺)に由来する。南北朝時代に
六角氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺ノ城郭」と太平記に記されたのが初見。
以来、近江守護六角氏の居城として拡張、修復が進められた。
観音寺城が当主が居住する城として、石垣を多用した形になったのは1530〜50年代のこと
で、これは近世城郭の嚆矢と云えよう。
織田信長の安土城より早く石垣・石塁を用いた城であり、小谷城ほか数例を見るのみである。
石垣の構築には穴太坂本の石積み職人集団、穴太衆が関わったと伝わる。
(最近の調査で、信長はすでに岐阜城で石垣を積ませていたようである)
永禄11年(1568年)足利義昭を奉じて上洛する織田信長の勢いに、六角義賢(承偵)・義治父子
は観音寺城をすて逃亡、以後城は廃れた。

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本丸跡 虎口の石垣
江戸時代の古絵図に「本城」と記されていて、中核部分と考えられるが確証はない。
平井丸跡、池田丸跡などと同じく、周囲は石垣で囲まれている。

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本丸跡 裏虎口
桑実寺(くわのみでら)に向かう位置にあり、食い違い虎口となっている。
後年改修された可能性もあるとのこと。

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各郭の間はこういう道でつながる

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平井屋敷跡

確かに巨大な山城で、かつ早くから石垣を使用するなど先進的な城だったことは分かった。
しかし、何故六角父子は信長軍の来襲に支城(箕作城)で破れたとはいえ、いち早く本城の
観音寺城を捨て甲賀へ逃げ去ったのか。これがずっと疑問だったし、なんと情けない六角氏
だろう!と思っていた。
で、この機会に六角氏について多少調べてみたら、以下のようなことらしい。
権勢盛んな六角高頼の頃、勢いの衰えた足利幕府に従わず、長享元年(1487年)に9代将軍
足利義尚に追討された(鈎の陣・まがりのじん) 。
この時、高頼は一旦城を捨て、山中にこもってゲリラ戦を展開し、後に城を奪い返した……
という六角氏の成功物語があった。
で、義賢・義治もその手を再現しようとしたのではないか ということである。
この時、せめて観音寺城の守りを固め、籠城して戦えば信長といえどもそう簡単にこの
山城を落とすことは出来なかっただろう。その後に有利な条件で和睦と云う手もある。
しかし、時代の流れを読めず、過去の成功体験にすがってしまい、ついに返り咲くことなく
衰退してしまったわけだ。
いま六角氏関係の書籍を探しても数も少なく、わずかな絶版本が高値で取引されている状態だ!
六角氏の末裔の方がいらしたら、是非名誉挽回、名家の誉れを世に示して頂きたい。
 
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観音正寺(かんのんしょうじ)
聖徳太子により繖山に建立された。鎌倉、室町期には佐々木六角氏の庇護をうけ隆盛する。
永禄11年(1568年)織田信長によって六角氏が滅ぼされると衰退、荒廃した。
慶長11年現在地に復興、西国三十三札所のひとつ(第32番札所)

登城・登山道について
まず観音寺山の登山道は多数(10本ほど)あるというが、一般的なお城ファン、たとえば
百名城スタンプラリーなどで城巡りをする人達の場合、麓から全て山登りとなると、やや
ハードルが高いのではないだろうか。頂上近くの観音正寺を目指して、マイカー、タクシー
利用というのが一番実効的攻略法だろう。二つのルートがあり、いずれも山道徒歩または
階段400段が待っている。観音正寺境内からは5分ほどで本丸跡に達する。
(*ちなみにスタンプ押すだけなら、麓の安土城資料館にも置いてあるのだが……!)

『天下城』〜 佐々木 譲
主人公は穴太の石垣職人、城と武将が次々に登場するというなかなか貴重な本である。
上巻に25頁分にわたり観音寺城のシーンがある。六角義賢も登場する。
城と石垣に興味のある方はご一読を。
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今日の一枚!
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平井丸に遺る石垣
山中にひとり、足元にシダの葉、蔦がからむ石積みをみていると想いは戦国の世へ
翔び、まさに「つわものどもが夢の跡」を感じる瞬間である。
素人の推測に過ぎないが、これも「品」の字に積み、間石は二個という典型的な
穴太積みではないだろうか。感じるもの大なり!

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最後にひとこと。
さて今回は初の観音寺城ということで、ポイントを押さえて概要だけ見る、
ということで終わってしまった。
戦国最大のこの山城の全貌を感じ取るには、もう少し時間をかけた山歩きが必要かな。
見逃している郭や石積みも多々あるようなので、次回への課題、また楽しみとして
残しておこう。近江へはまたすぐに行くことになりそうだし……。
ふもとでスタンプだけ押した人、居ませんか〜?!

じゃぁ また 
 

第92景 〜小谷城

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小谷城(おだにじょう:黒金門跡)  滋賀県長浜市湖北町伊部 →Map 日本百名城No.49
築城年:大栄3年(1523年)  築城主:浅井亮政(すけまさ)1575年廃城 梯郭式山城 
                              (撮影:2016年11月)

北近江の国人領主から戦国大名へ上り詰めた浅井家三代の居城小谷城へ行ってきた。
昨秋、全山燃ゆるがごとき紅葉の頃だ。今回は珍しく東京から車で近江国へと向かった。
東名名神を走り、早朝に長浜市小谷山の登城口に到着、朝一番で山上の城跡を目指した。

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小谷山
もと京極氏の家臣だった浅井氏が台頭したのは、大栄5年(1525年)頃、浅井亮政
代である。亮政(すけまさ)は小谷山に城を築き戦国大名への足場を固めた。
小谷城はこの時築かれた山城である。二代久政の時、南の六角氏に一時支配されたが、
三代長政は永禄3年(1560年)六角氏を破り、さらに版図を広げ戦国大名へと成長させた。

その後はもう誰もが知る戦国の歴史悲話となる。隣国尾張の織田信長との同盟、信長の妹
お市と長政の婚姻。信長の越前朝倉攻めでの裏切り。姉川の戦い、そして小谷城落城と
三姉妹の運命。もう歴史小説で何度も聞かされた一連の物語である。
落城の悲話、廃城後の山城の来し方を想うと 今ひとつ腰が重かったのだが、百名城指定でも
あり、当初はハードルひとつ跳び越すような気持ちでの訪問であった。
しかし、来てみると折からの紅葉と天候にも恵まれ、印象的で記憶に残る登城となった。

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望笙峠(ぼうしょうとうげ)から琵琶湖と竹生島を望む。

朝、麓の資料館の開館時間よりだいぶ早く着いたので、先に登ることにした。
郭のひとつ金吾丸あたりまで車で上がれるらしいが、ここはいつものように大手道から
すべて徒歩で行くことにする。山道を一歩ずつ落ち葉を踏みしめながら登って行く。
すぐに最初の郭「出丸」に着いた。典型的な山城の郭で二段の郭跡と土塁が確認できた。
大手口や城下を監視していたところだという。また少し登り望笙峠に出た。視界がさらに
開け、 眼下に湖北の町と琵琶湖が確認できる景勝の地だ。
さらに高台の金吾丸 に上がり番所跡を過ぎて、小谷城の主要部へと入って行く。
直線状に配置されてた郭をさらに三つほど越えると、平坦な桜馬場に達する。
 
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桜馬場 この郭の先端からも琵琶湖の絶景が望める。浅井氏と家臣の供養塔が建つ。

桜馬場から先、大広間本丸へと向かう虎口を守っていたのが黒金門 (冒頭の写真 )だ。
浅井長政自刃の後、小谷城は一時秀吉の支配となるがすぐに廃城となる。
黒金門は打ち壊された城のイメージが湧いてくる一番の見所だろう。
2011年NHK大河ドラマ「(ごう) 〜姫達の戦国」でも桜馬場と黒金門でロケが行われた。
一番広い大広間の先に本丸の石垣が残っている。本丸は鐘ヶ丸ともいい落城直前まで長政が
居住していたところだ。信長の安土城以前に城郭に石垣を積んだ例は観音寺城ほか数例ある
が、小谷城の石垣も穴太の石積み職人の手によるものだろうか?

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 大広間本丸(鐘ヶ丸)跡の石垣

本丸とその先の郭を仕切る大堀切りを越えて、中丸から京極丸と続く。そしてこの山城の
最高所、標高395mの山王丸 に達する。山王丸南側の虎口跡には破壊された石垣が散乱
しており、ここにも黒金門同様「敗者の城」を象徴する 景色が広がっていた。
また山王丸の東面に高さ5mの野面積みの石垣の一部が残り、大石垣と呼ばれている。

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山王丸虎口跡:破壊され散乱する城石、敗者の城である。

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大石垣
山王丸からは六坊へ下り、搦手口から清水谷へ下る道をとれば小谷城の全体像を掴める
ところだが、もう少し撮り込みたい撮影場所もあって、同じコースを下ってしまった。
機会があれば違う季節にもういちど登ってみたい。
所要時間は一般的なハイキングコースと撮影では時間に開きがあって、参考にならないかと
思うが、往復で6kmほど、4時間を費やした(普通は半分の2時間あれば充分だろうか?)。

同盟者だった信長を裏切り、戦いの末滅亡した浅井家三代の栄枯盛衰を見てきた小谷城。
自刃して果てた久政49歳、長政は29歳だった。
なぜ裏切ったか?については、信長が浅井朝倉の古くからの同盟関係を無視して朝倉攻めを
始めたことが原因、というのが通説である。もう少し詳しい資料を探してみると、
これがKindle版で見付かった。

朝倉支持にまわった点については、長政より父、久政の方が朝倉に対して恩義を感じる
ところ大で、この久政の意向を優先したのではないか……。
また、長政の方は反信長統一戦線(足利義昭、朝倉義景、石山本願寺、毛利一族、武田信玄)
に戦国大名としての一縷の望み、天下取りの展望を見たのかもしれない……という見方も
参考になった。知りたい個所だけピンポイントで読めて、103円はなかなか良い!
 
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・・・・・・・・・・・・・・
今回の小谷城、木立の合間から望む琵琶湖の風景に、近江の国と戦国の歴史へと誘われる旅でした。あとNHK大河の「江 〜姫達の戦国」は、久しぶりに途中で放棄したドラマでした。簡単に言うと好みじゃなかったということです!ファンの皆様ゴメンチャイ!
(理由は省くきますネ(^_^;)

じゃぁまた

 

第91景 〜佐賀城

今回の佐賀行きでは、まず「吉野ヶ里遺跡」をじっくりと見た後、佐賀市内へ戻って
「佐賀城」にも足を伸ばすことができた。
普段は1日1城が基本なので、2城回れたことが嬉しい。しかも両城とも百名城指定だ!
では早速、桜満開の佐賀藩三十五万石、鍋島氏の居城「佐賀城」からお届けしてみたい。

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佐賀城 (鯱の門と続櫓:現存)   佐賀県佐賀市城内2-18-1→Map  日本百名城No.89
別名:沈み城 、佐嘉城 築城:慶長16年(1611年)  築城主:鍋島直茂   輪郭梯郭複合式平 城
                             (撮影:2016年4月3日)
「鯱の門」をくぐり本丸へ向かう。屋根に青銅製の鯱(しゃち)が一対乗っていることから
その呼び名がある。続櫓と共に天保9年(1838年)の姿で建つ現存の重要文化財である。

佐賀藩といえば鍋島氏だが戦国期まで遡ると、この地を支配していたのは龍造寺氏だった。
中央で羽柴秀吉が天下統一に向けて躍進するこの時代の当主は龍造寺隆信
天正12年(1584年)同じく勢力を拡大する薩摩島津氏と島原の有馬氏連合軍を相手に島原で
合戦に及ぶが、この沖田畷(なわて)の合戦で、隆信は戦死してしまうのだ。
信隆の後見役が鍋島清房で、その次男鍋島直茂が家督を相続することを秀吉に認められ、
直茂は佐賀藩の藩祖となった。隆造寺家を乗っ取った格好である。
(沖田畷の合戦については司馬遼太郎・街道をゆく「島原・天草の諸道」で読んだ) 

龍造寺氏居城の村中城を直茂が拡張改修し城名も改めた。さらにその子勝茂
初代佐賀藩主となると(1608年)総普請を開始、翌年には四層の天守も建てられた。
慶長16年(1611年)に城は完成し、勝茂が本丸に入り、その後佐賀藩は開明君主として知られ
た第10代直 正(閑叟)を経て、11代直広のとき明治維新をむかえている。

幕末の官軍、薩長土肥と数えられる四藩の「肥」がこの肥前佐賀藩で、これはひとえに
鍋島直正の功績による、といって良いだろう。

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天守台
天守台は高さ9m、南北31 東西27m、四層五階の天守が建てられたが、享保11年(1726年)
の火災で焼失、その後は幕府への遠慮もあり再建されることはなかった。

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天守台への道
切石で正確に積まれた隅部と自然石を積んだ積み石部のバランスがよく、当初の
予想を越えてなかなか美しい石垣に魅了された。
現在天守台の発掘調査と文献調査が進行中とのことで、天守の構造などが判明してきた
ようだ。小倉城に似た天守だったとも云われる。絵になる天守台だけに再建が待たれる。
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本丸御殿(玄関と式台:佐賀城本丸歴史館 2004年復元)
天保9年(1838年)鍋島直正が再建した本丸御殿が伝統工法により忠実に復元された。
一之間から四之間まで合わせて320畳という大空間が再現されている。
 
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南西隅櫓台から御殿を見る
右手の一棟が「御座の間」直正の居室で、移築され公民館として使われていたものを
元の位置に再移築したという。

佐賀城の別名が「沈み城」といわれるのは、低湿地帯に建つ城の廻りを幾重にも堀で囲み、
防御時には主要部以外を水没させる仕組みになっていたという説と
平地の城のため視界を遮るための樹木が植えられており、そのため天守が埋もれて見えた
ためという説があるという。どちらもありそうな話である。

翌日仕事を終えて、空路東京へ帰ったのだが、確かに城の建つ佐賀平野はそのまま有明海
に続いている。海岸近くの佐賀空港で有明海産の海産物を買い込んで機上のカメさんになった
ワラズボがお勧めである!)

じゃぁ また




第90景 〜吉野ヶ里

弥生時代の集落遺跡、佐賀県の吉野ヶ里遺跡に来た。普段の近世城郭から一気に時代を
遡って古代遺跡に来てしまった! 何故かと云えば、ここにも城があるからなんだね!
さてどういうことなのか?早速弥生時代へタイムトリップしてみよう!

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吉野ヶ里(南内郭) 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843→Map  日本百名城No.88
     弥生時代の環濠集落遺跡(BC4世紀頃〜)1989年発見・発掘開始
                        (撮影日:2016年4月3日)
吉野ヶ里遺跡は佐賀県神埼市から吉野ヶ里町にかけて広がる丘陵地帯で発掘された
弥生時代の環壕集落遺跡である。環壕とは居住地区をとり囲む堀のことだ。

ここは大正時代末から昭和のはじめ頃にはすでに研究者に注目されていたが、昭和61年
工業団地計画による発掘調査が開始され、平成元年(1989年)大規模な環壕集落や
墳丘墓の発見により全国的に注目されることとなった。
特に吉野ヶ里遺跡が魏志倭人伝の邪馬台国の描写にある宮室、楼観(物見櫓)城柵等を
備えていたことから、当時は「ついに邪馬台国発見か!」と騒がれたのである。
(のちに邪馬台国とは築造年代が違うことが分かった)

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壕と城柵
実はこの吉野ヶ里遺跡は日本城郭協会により日本百名城に認定されているのである。
居住地域のまわりを3重の堀で囲み城柵を立て物見櫓を有した防御都市であったことから
城郭の始まりとされたのである。

弥生時代に広まった灌漑水稲栽培(稲作)によって、人は定住し農耕社会へ移行し、集落は
ムラとなり、さらにクニへと発展していった(歴史教科書で教わったとおり) 
その過程で貧富の差が生まれやがて社会階級の差となり、集落間の争いも多くなった。
堀や城柵、逆茂木は集落を外敵から守るための防御設備であった。

吉野ヶ里の堀はV字型の断面をした空堀で囲まれているので「環 」であり、水堀の場合は
「環 」と記すのが城郭ファンのこだわりかも知れない。
 
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堀と城柵と乱杭(非常に排他的、戦闘的雰囲気が横溢する光景である)

百名城指定となったことでスタンプラリーなど百名城踏破を目指す者は必ずこの遺跡に
足を運ばなくてはならなくなった。勿論一度は見ておきたい遺跡であることは間違いない! 
そういうことで私もやって来たのだが、ちょうど「日本史を学び直そう!」と古代から
見直しを始めたところだったので期待は倍になっていたのである。

空路で佐賀空港から入りJR佐賀駅へ移動、3駅目の吉野ヶ里公園駅まで何の支障もなく
ことが運び、あっという間に古代遺跡の大地に立っていた。
いつものように駅から城跡までは徒歩で行く。城下町を抜けるのではなく広々と開けた
丘陵地帯、揚げひばりの声を聞きながら長閑な道をゆくのがやや勝手の違うとこだろう。

入場ゲートをくぐりさらに進んでやっと居住地区に達した。広大な遺跡である!
城柵や物見塔、住居や倉庫、さらに大型の主祭殿などが復元されている。
これらは弥生時代後期後半(BC3世紀頃)の集落最盛期の姿を復元したものだという。
環壕をもつ集落形態は弥生時代の早期には既に現れていたというから、吉野ヶ里だけが古代の
城跡というわけではないが、この熱の入った発掘調査と、何よりも調査に基づいた復元が
決め手になったということだろう。素晴らしい!
 
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竪穴住居や倉が復元された地区
実際に行ってみて改めて確認し、驚いたのが堀と土塁、そして城柵の位置関係だ。
柵の内側(居住地側)に壕が掘られている。逆ではないかと思ったが、発掘に基づく
復元なのである。

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主祭殿に再現された祭祀の様子

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北墳丘墓
弥生時代後期には土で塚を築いた墳丘墓が現れ高位の階級の人物が葬られた。

人が定住し集落が出来た途端、争い事が起こって殺し合いが始まり、以後今日まで
数千年にも渡って戦争を続けているわけで、人間ってなんて愚かしい生き物かと思う。
ま、城歩きとはちょっとはずれてしまったかが、歴史を思うよい機会ではあった。

ということで今回はちょっと毛色の変わった城郭探訪だったけど
まだまだ旅は続くのであった・・とさ。

じゃぁ また 






第89景 〜久保田城


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久保田城 (御隅櫓:再建)  秋田県秋田市千秋公園1-39  平山城(神明山)  日本百名城No.9
     別名:矢留城、葛根城  築城主:佐竹義宣  築城年:慶長9年(1604年)
                           (撮影日:2016年3月29日) 
出羽久保田藩の初代藩主佐竹義宣(よしのぶ)が築いた城である。
というといきなり聞こえは良いが、元もと佐竹氏は常陸国(今の茨城県)を本拠としてきた
武家の名門で54万石の大大名だった。しかし関ヶ原で中立的立場を取ったことから戦後処理
で出羽国へ国替えされたのだ。徳川家康によって飛ばされたわけだが、江戸時代を外様大名
として生き抜き、出羽に根を張り十二代続いて明治を迎えた。

慶長7年(1602年)当初佐竹義宣は秋田の土崎湊にあった安東氏の湊城に入城した。
20万石に減封されたとはいえ佐竹氏には手狭であったため、窪田の神明山に築城し慶長9年
(1604年)に完成させたのが窪田城(後に久保田と改称)である。
石垣が殆ど使われない堀と土塁で固めた城だが、東国の大名では普通のことであった。
天守や三重櫓なども建てられず、8基の櫓と書院のみという質素な城造りで、これが徳川への
遠慮だったとも伝わる。(確認されていないが・・)

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御隅櫓
繰り返しになるが久保田城には天守が建てられることはなかったのだが1989年(平成1年) に
8基あった隅櫓のうち北西隅櫓を再建、本来は二階建の櫓だったが三層四階で破風を持った
一見望楼型天守を思わせる建造物としてそびえている。
今、秋田の久保田城というときには必ずこの櫓の写真がシンボルとして使われるが城郭史的
には若干問題のある再建ということになろうか。

一応上まで登ってみたが城下を一望できる展望台であり、城の立地も分かりまた旅の印象も
深まるので一概に批判もできないところだ。
城内を歩き、下から見上げてみると土塁の城跡ということがよく分かる。
それから斜面の樹木は明治以後に公園化するにあたって植樹されたものだろう。
城郭としては無用のものだが、市民憩いの場として・・・と、どこまでももどかしい。
 
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長坂門跡から表門(一の門)と 御物頭番所
この長坂の辺りが藩政時代の雰囲気を良く残しているそうで、唯一現存の御物頭番所と再建
された表門、そこへ続く折れ曲がった石段から確かに往時の様子が伝わってくる。

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表 門(一の門:2001年再建) 
久保田城本丸の正門で一の門と呼ばれた高さ12.5mの櫓門。
絵図と発掘調査に基づき正確に再建された。門の後方に実際の礎石が残っている。
門をくぐって本丸跡へ達するわけだが、こういう再建は嬉しく、歓迎である。

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御物頭御番所(現存)
城内唯一の現存遺構である。表門の直下にあり長坂門の開閉、城下警備、火災の消火等に
あたる物頭(足軽の組頭)の詰所だった。

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本 丸 跡
1880年(明治13年)の大火で久保田城の殿舎のほとんどが焼失したという。本丸跡には
久保田藩最後の藩主、十二代佐竹義堯(よしたか)像がポツンとした印象で建っていた。
 
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堀と土塁(城跡、千秋公園入口)
 秋田へは久しぶり(かれこれ20年ぶりくらい)の再訪であった。特に今回はJRの
「青春18切符」を使い新潟の新発田を経由しての秋田入りだった。すべて各駅停車の旅である。 
酒所秋田の美酒を頂いたら、帰り際に店の秋田美人が「お土産です」と、秋田塗りの
ぐい呑みを持たせてくれた。もうほかに云うことある・・?
杯を重ねるたびに浮かぶのは出羽の名城の姿である。

じゃぁ また 

第88景 〜新発田城


三月下旬関東の桜が開花、桜前線はさらに北上し翌週には新潟でも、と聞いて出発した。
2016年春のJR「青春18切符」の旅、最初の行き先は新潟県新発田(しばた)市。
新発田も桜の名所だが、あえて開花前の時期を選んだ(理由は云うまでもない)
お陰で訪問者もまばらで 静かな城歩きとなった。文庫本片手の越後の城歩きである。

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新発田城(三階櫓:復元) 新潟県新発田市大手町6→Map   日本百名城No.31
別名:菖蒲城、舟形城 築城~改修:新発田氏〜溝口秀勝 築城年:慶長3年(1598年)平城
                            (撮影日:2016年3月28日)
先ず地名にその名を残す新発田氏だが、北越後の国人「揚北衆(あがきたしゅう)」として
室町時代より新発田城を本拠とし、およそ今の新潟市から三条市辺りまでを支配していた。
新発田長敦(ながあつ)の代には上杉謙信に仕え戦功を上げている。謙信没後の後継者争い
御館の乱)でも上杉景勝側に付き戦功があったが直後に長敦は病没してしまう。
弟の新発田重家が後を継ぐが、上杉からの恩賞の薄さに景勝に対して反乱を起こした
新発田重家の乱)。反乱は足掛け7年に及んだ が、景勝に攻められ天正15年(1587年)
新発田城は落城、新発田氏は滅亡した。・・というところまでが全段だろうか。

豊臣秀吉の世となり越後を支配してきた上杉が会津へ国替えとなった慶長3年(1598年)、
秀吉配下の溝口秀勝が6万石で新発田に入封し、旧新発田城跡に新たに近世城郭を築いた。
家臣の軍学者の縄張りということだが赤穂城にもよく似た配置だ(甲州流だろうか?)
城が完成するのは56年後、三代宣直(のぶなお)の時である。
秀勝は関ヶ原では東軍家康側に付き、戦後も本領を安堵され初代新発田藩主となった。
また歴代藩主が河川改修や干拓、治水と新田開発に努めた結果穀倉地帯となり、また学問を
奨励したことで藩政は安定し城下町は栄えた。外様大名ながら一度も改易されることなく
十二代で明治を迎えている。

城内には明治5年まで櫓が11棟、城門が5個所に残っていたが、廃城令で破却され、現在は
本丸石垣、堀の一部、表門と旧二の丸隅櫓が現存している。
2004年に古写真などを基に三階櫓と辰巳櫓が伝統工法で復元され往時の姿を偲ばせる。
三階櫓は事実上の天守にあたるもので、屋根の丁字形の棟に三匹の鯱が乗る独特のものだ。

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本丸表門(現存)
火災で焼失した後、1732年に再建された櫓門。正面に石落としがある。現存する国の重文。
確かに桜と合わせて眺めたくなる佇まいではある。

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旧二の丸隅櫓(現存)
こちらも現存で重文の旧二の丸隅櫓。これは本来二の丸にあったものを昭和の解体修理の際に
本丸の鉄砲櫓があったこの位置に移築したもの。表門同様「海鼠壁」が印象的だ。
桜開化の前で、背景の山々にはまだ積雪が残っていた。

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辰巳櫓(復元)
2004年三階櫓とともに伝統工法で再建された辰巳櫓で、内部も観ることが出来る。
この辰巳櫓、表門、二の丸隅櫓が並ぶ構図も新発田城の見どころである。

城下には溝口家下屋敷の御殿と庭園(清水園)、足軽長屋も現存している。
城下町は武家の気風を今に残し、地元商店が機能している(コンビニの少ない)落ち着いた
町並みで、個人的には好感度大な新発田の町だった。

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堀部安兵衛武庸(たけつね) 像
表門の向かいに建つ堀部安兵衛像。高田馬場の決闘や赤穂浪士四十七士の一人として
名の知れた剣客であるが、元はここ新発田藩溝口家家臣、中山弥次右衛門の長男
中山安兵衛であった。
安兵衛活躍の場は討ち入りも含めすべて江戸においてであるが、ここは郷土出身の
有名人として持ち上げたい気持ちもよく分かる。
また史実とは微妙に違っているが池波正太郎の「堀部安兵衛」を挙げておこう。
作者による創作部分も多々あるが、安兵衛34年の生涯に触れるには最適の本かも。
あくまで面白い時代小説としてのお勧めである。

名称未設定 1
「堀部安兵衛」:池波正太郎(新潮文庫)

さて、最後にこれは云わなくても良いことかもしれないが、やはりひと言!
各地の城跡で地元のボランティアによる 観光ガイドがつくことがある。
だがここにいたおじさんガイド!長年関わるうちに新発田の城主にでもなった気分なのか
訪問者に自分の主義をおしつけるようになったものと思われる。
詳細は省くが、非常に不愉快な思いをした(城跡では初めてのことだ)
そもそも現存の表御門の真下に椅子・テーブルを据えて訪問者にあれこれ指示する
必要があるのだろうか?(表門に常に複数のガイドがたむろして世間話に興じている!)
せっかく名城を観た後だ、この辺で止めておくが、新発田市には一考をお願いして
今日はお終い・・だ!

じゃぁ また 
写真と記事 : 後藤 徹雄
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