城跡酔夢譚 〜 カメも歩けば城に当たる!!!

歩みののろいプロカメが
五畿八道を一歩ずつ
歩いて廻る城の跡、つわものどもが夢の跡
はてさて何城登れるか
千里の道も一歩から始まることを信じよう〜♫

第105景 〜一乗谷城

_OMD0231
一乗谷城 (朝倉館跡 唐門)  福井県福井市城戸ノ内町Map   日本百名城No.37
築城年:文明3年(1471年)  築城主:朝倉孝景 廃城:1575年(天正3年)(撮影日:2016年7月)

戦国大名、越前朝倉氏の居城が一乗谷城である。
先ずはその一乗谷の位置と地勢を把握するためGoogleEarthで確認しておこう。

谷の北西側に福井平野が開け、九頭竜川水系の足羽(あすわ)川が流れ込む。
福井市街から川を遡って南東へ約10km、さらに支流の一乗川沿いの谷間が
一乗谷である(→地図参照)
谷底の平地は東西約 500m、南北約3kmである。その南北をそれぞれ城戸で仕切った
城戸の内に朝倉氏館、侍屋敷、寺院、町屋を計画的に配置して、一万人が居住する
日本有数の城下町が形成されていた。
谷の東側、一乗山に有事の際の詰め城として築かれた要害堅固の中世山城が
一乗谷城である。一乗谷城跡とはこの山城と谷間の城下町から成り立っている。

スクリーンショット 2021-02-04 1.59.47のコピー

城主朝倉氏の先祖は、但馬国(兵庫県北部)に発祥した一族であった。
南北朝時代、朝倉広景は越前守護となった斯波氏に従い越前に入り、黒丸城を居城とした。
越前朝倉氏はこの広景から始まる。
室町後期、応仁の乱に端を発した戦国の世に7代朝倉孝景が勢力を伸ばし、斯波氏を追って
越前国守護となる。孝景は1471年(文明3年)一乗谷の地に館を築いて越前を支配した。
10代孝景(7代と同名)の頃には弱体化した室町幕府を支え、京都、奈良から公家、僧侶、
文化人を迎え、一乗谷は越前支配と文化の中心として繁栄したのである。

11代当主義景は、近江の浅井長政と連携し、織田信長と4年にわたって戦ったが、
1573年(天正1年)刀根坂の戦いで敗れ、大野で自刃した。ここに一乗谷朝倉氏は
5代103年にして滅び、城下町も灰塵に帰したのである。 以後廃墟となった城下町は
400年にわたり土に埋れて行くこととなる。

1967年(昭和42年)、この城跡に発掘調査の手が入り、戦国時代の遺跡が再び、
陽の目を見ることとなった。 城域は国の特別史跡に指定、主要4庭園が特別名勝と
なっている。いま、戦国武将の夢や挫折に思いを馳せるに最も相応しいところ、それが
この一乗谷城跡ではないだろうか。何度でも訪れたくなる場所である。
 
一乗谷朝倉氏遺跡を見ていこう。
_OMD0240
 松雲院唐門
この辺りが朝倉義景館の正面出入口であった。現在残っているこの唐門は義景の
菩提を弔うため江戸時代中期に建てられた松雲院の山門である。
したがって朝倉氏直接の遺構ではないが一乗谷を代表する最も印象深い景色である。

_OMD0237
三盛木瓜紋:朝倉家家紋
_OMD0227
土塁 唐門をくぐり館の内へ。
東側の山城を背にして、南、西、北に一辺約100mの堀と土塁をめぐらせている。
_OMD0196
朝倉義景館跡全景:発掘調査により、庭園跡、井戸、建物柱の位置等が平面表示されている

_OMD0202
湯殿跡庭園
_OMD0210
中の御殿跡(義景実母の屋敷跡)

復原町並み
一乗川の対岸には発掘に基き、武家屋敷と職人等の町屋からなる町並みが復原されている。
 _OMD0143_OMD0177










_OMD0163_OMD0145










_OMD0166_OMD0139





































一乗谷への出入り口には石垣と堀、土塁で固めた南北の城戸が現存している。
私が最も惹きつけられる遺構が、巨石を積み上げた下城戸の枡形である。
初回の訪問以前から、雪を被った巨石の印象があって、冬季に二度訪れ再撮影したものだ。
もう少し積雪が欲しかったが、降りすぎては肝心の石積みが見えなくなってしまうので
なかなかむずかしい。
_RSD0018
下城戸の石積み                          (2020年2月撮影)
_R5S0227_R5S0377







下城戸と上城戸
2018年1月の寒波襲来時には下木戸、上木戸ともにすっかり雪に覆われてしまった。
 
_R5S0198
積雪に埋もれた唐門(2018年2月撮影)
 「冬季は訪問に不向き」としたガイドブック等も目にするが、豪雪地帯である城跡の
もう一つの表情も見ておきたい。一乗地区には約300世帯があり公共交通機関で普通に
訪れることができるのである。

次回訪問の折には山頂から日本海も臨めるという、一乗山城へ上がってみよう。
また近々のご報告を約束して、今日はここまで!

ではでは。
 

第104景 〜土浦城

首都60km圏の茨城県土浦市、都心から電車、車ともに1時間強で行ける土浦藩の藩庁だった
城である。では早速。
_R5S0022
土浦城(太鼓門 現存)  茨城県土浦市中央1→Map    輪郭式平城  続日本百名城No.113
別名:亀城  築城年:永享年間(1429~1441年) 築城主:若泉三郎  改修者:松平,西尾,朽木,土屋氏(撮影:2020年6月)

プロフィールに記した通り、室町時代の永享年間(1429~1441)、若泉氏によって土浦城は
築かれたという。しかし、その以前から土豪による築城と城主の入れ替わりが繰り返されて
いて、実のところ土浦城の始まりは不明ということらしい。
その辺は特に郷土史に興味があるとか、研究者でもなければ深入りする必要はないだろう。
私のような城旅びとは、今に残る土浦城跡の元になった江戸期以降の歴史を知っていれば
十分ではないだろうか。

関ヶ原合戦後の土浦城は徳川譜代の大名が入れ替わり城主を務めている。今でいう首都60km
圏であり、江戸城防衛上重要な城のひとつであっただろう。
土浦藩の初代は松平信一3万5千石、以後は西尾氏2代2万石、朽木氏2代3万石、土屋氏
2代4万5千石、松平氏1代
2万2千石、貞享4年(1687年)以降は土屋氏9万5千石で十代
続いて明治に至っている。土屋氏の9万5千石は常陸国では水戸藩に次ぐ第二の藩であった。
増改築を繰り返しながら二百六十余年続いた徳川の城と城下町土浦である。

では、現在「亀城公園」として整備され、続日本百名城に指定された土浦城跡を歩き、
往時の様子を想像してみたい。
_R5S0040
東櫓・霞門
本丸など中心部は二重の堀で守られ、さらに城域全体が霞ヶ浦から引き込んだ三重四重の
堀や水路に囲まれていた。土浦は水害の多い土地だったが、城は水没を逃れ水に浮かぶ亀の
甲羅を連想させたことから亀城(きじょう)の別名を持つことになる。
東櫓
西尾氏の時(1620~)、西櫓とともに本丸土塁上に築かれた。この辺が同時期に櫓門に
改修された太鼓門とともに、往時の土浦城 らしい風景ではないか。霞門も現存の門である。

IMG_1933のコピー
土浦城城絵図(常陸国新治郡土浦城図)
隣接の土浦市立博物館で販売中の城絵図を購入した。A1版 200円。
絵図を見ると水戸街道の南側の出口に角馬出、また北側には丸馬出が描かれている。
この馬出は貞享年間(1684~87年)松平信興の時に築かれたものなので、絵地図もその頃
描かれたものだろう(絵地図の制作年が記されていないので推測)。

IMG_604051E91F57-1
GoogleEarth
現在の土浦城跡(亀城公園)は本丸、二の丸、三の丸という城の中心部だった区域で、
周辺は開発によって市街化されてしまった。絵図のとおり、江戸期には霞ヶ浦の湖岸が
今よりも西寄りで土浦城に迫っていた。というより湖岸近くに城を置き、湖水を堀まで
引き込んだ縄張りになっていた、と考えるほうが妥当だろう。

_R5S0133
東 櫓 ・土塀
譜代の西尾氏(西尾忠永・忠照)が城主の頃(元和年間)西櫓と共に建てられた二層二階の櫓。
東櫓は明治時代に火災で焼失、平成10年(1998年)復元された。

_R5S0174
本丸土塀(復元)
本丸土塁上に巡らされた土塀。土塀の形状が描かれた絵図と土塁の発掘調査の結果をもとに
復元された。鉄砲狭間も設置。

_R5S0149
東櫓内部(二階) 土浦市立博物館の付属展示館
隣接の市立博物館の入場券(105円)でこちらの櫓内にも入場できる。

_R5S0157
東櫓内部(一階)
櫓門(太鼓櫓)の太鼓と西櫓に載っていた鯱の展示

_R5S0027
本丸跡
堀と土塁で囲まれた 95m x 55m の本丸跡。土塁は往時は屏風折れに屈曲して築かれていた
というが、現在は直線になっている。櫓門(太鼓櫓)が本丸正門となる。

 _R5S0107
西 櫓
東櫓と同時期に建てられた櫓。こちらは昭和24年(1949年)関東地方を襲ったキティ台風に
より損傷。復元を前提に翌年解体されたが、その後長く放置されていた。
平成4年(1992年)保管されていた部材で復元された。 

_R5S0069
二の丸跡
亀城公園としてよく整備され、市民の憩いの場として親しまれている。登城当日も子供たちを
遊ばせている多くの家族を見かけた。

_R5S0101
土浦市立博物館

_R5S0084
土浦城関連の展示
写真右奥に城絵図が展示されている。制作年代は正保年間となっていて、これは幕府が諸藩に
提出、報告させた正保城絵図ということになる(実物だと思う)。
正保城絵図は現在63葉を国立公文書館が保管し、デジタルアーカイブとして誰でも利用が可能
である。しかし、この土浦城の絵図は公文書館カタログから漏れている。

とすると、この城絵図は明治以後に江戸城紅葉山文庫から持ち出され土浦へ戻ってきたもの
だろうか? それとも最初から提出用と保管用に正副二葉が作られたうちの一葉だろうか?
これが今回一番気になったことであった。今度改めて訊いてみよう(いま休館中なので)。 

先ほどの博物館で購入した絵図より年代が古いので、南北の馬出はまだ描かれていない。

_R5S0080

_R5S0090
博物館の入場券で東櫓にも入れるし、ほぼ土浦城に特化した博物館なので必見である。

江戸期を通して土浦藩は大きな事件もなく、また幕末の激動期もなんとか乗り切り無事に
明治を迎えたのである。
最後にもう一度、重文の櫓門を見ておこう。無事これ名馬、いや名城と言ってもいいかな!!!

では また。
_R5S0123

第103景 〜松前城

北海道の松前と云えば、一般的には「あ、あの松前漬け」が有名といったところか。
ちょっと歴史やお城に興味があれば、「松前城」とか「函館戦争」などのキーワードが
出てくるのだが……。ではでは、その北海道松前町での城歩きを。
_R5S_0355
松前城(復元天守と本丸御門)北海道松前町字松前144→Map 平山城  日本百名城No.3
別名 :福山城  築城年 :安政元年(1855年)  築城主 :松前崇広  廃城年 :明治7年(1874年)
                                                                                     (撮影日:2017年9月)
前置きを少々。
城主の松前家は元を蠣崎(かきざき)家といって津軽安東家の家臣であった。享徳3年
(1454年)主家の安東家が南部家に追われ蝦夷地へ渡った際に安東政季(まさすえ)に
従った一族である。
政季は配下の武将を渡島半島沿岸に十二の館を築いて配置した(道南十二舘という)。
蠣崎家は花沢館を本拠に勢力を伸ばし、移住後五代目の蠣崎慶広(よしひろ)のとき
豊臣秀吉に謁見し、蝦夷島支配者として大名に準じる待遇となった。
後の徳川政権下でもこの地位を認められ、慶広が徳川配下となった機に姓を松前と
改め「蝦夷島主」の名を得たという。
*(蠣崎氏家系については諸説あって、伝承も多く含むということである)

松前家は城持大名ではなく、蝦夷福山藩無石大名格という扱いだったので、
松前慶広が慶長5年(1600年)から福山台地に築いた居館は福山館と呼ばれた、
いわゆる陣屋であった。
ただ、幕府は江戸時代の後期まで蝦夷地に対して特段の関心を持たなかったため、
松前家はアイヌとの独占交易や漁業権益などで巨利を得ていたのである。
当時、最果ての地とも思われていた蝦夷の松前だったが、北前船が寄港し
思いがけず交易の盛んな商業都市として開け、にぎわう様子は時代小説などにも
描かれている。

*本来の城名は福山城であるが、備後福山城との混同を避け当初から松前城とも呼ばれた。

_R5S_0381
本丸御門(重要文化財) と 天守
その福山館が正式に福山城となるのは、幕末という時代になってからである。
この頃、蝦夷地にはロシア船が来航するようになり、幕府は北辺警備を厳重にする
必要から、嘉永2年(1849年)、藩主の松前崇広(たかひろ)に築城を命じた。
築城の縄張り(設計)には高崎藩の兵学者で、長沼流の市川一学が当たった。
一学は当初函館での築城案を勧めたが、松前藩側の要望もあり、本拠松前の
福山館を拡張することとなった。
翌嘉永3年(1850年)より改修が始まり安政元年(1855年)秋に完成した。
松前城は長崎五島の石田城(福江城)とならぶ日本最後期の日本式城郭である。

現在の松前城跡を歩いてみる。
_R5S_0419
天守台と本丸御門東塀
松前の象徴とも言える三重三階の天守の方は昭和36年(1961年)にRC造りで外観復元
されたものだ。元の天守は維新後も現存し、昭和16年(1941年)には国宝指定を
受けていたが昭和24年(1949年)に失火により焼失したのである。
復元された天守もいまや60年の耐用年数を過ぎ、また耐震基準の観点から木造による
再建計画が立ち上がっている。(完成予定が2035年とは大分先の話ではあるが……)

_R5S_0416
石垣に残る銃弾の跡 

_R5S_0372
天守内部(松前資料館)アイヌの武将についての展示が多いのも松前ならでは。

_R5S_0410
本丸御門
(重要文化財)
延焼を逃れた本丸御門は今日まで残り重要文化財である。緑色がかった切り込み接ぎの
積み石が往時を忍ばせる。城内の石垣に使われている石材は、地元で採れる緑色凝灰岩と
兵庫の本御影石(花崗岩)が使われている。

_R5S_0321
三の丸土塁上から津軽海峡と城下町を望む
城は東の大松前川と西の小松前川が形成した河岸段丘城に築かれている。高台上の
本丸から海岸方向へ向けて、二の丸と三の丸が雛壇状に並ぶ。三の丸には砲台が7基、
海岸にも16の砲台が海へ向けて設置された。
城下町は海岸に沿って東西に町家が配置され、侍屋敷と町屋敷が混在する、商業中心の
街づくりになっていた。城の背後はさらに高台となっていて寺社を集めた寺社町であった。
_R5S_0319
五番台場跡(復元)と土塁

_R5S_0314
搦手ニノ門(復元)
幕末の古写真を解析し棟や冠木の高さを割り出して再建された。

_R5S_0442

_R5S_0301_2

_R5S_0290
堀廻り水路跡
今は埋められているが、江戸時代には堀が巡らされていた。その水路に沿って木道が
設置されている。

_R5S_0389
本丸表御殿玄関
天守、本丸御門とともに残った表御殿は、松城小学校の校舎として使われていたが、
1900年新校舎建設時に取り壊された。しかし、玄関のみが新校舎に設置された。
さらに1982年新校舎建設に伴い、玄関は曳家で松前本丸跡へ戻され保存されている。

_R5S_0456
馬 坂(松前藩士の登城)    城内へ通じる五つの坂のひとつ

さて、幕末の松前城についてだが、
松前藩は戊辰戦争当初は奥羽列藩同盟に参加していたが、藩内の勤王派が藩政を掌握し、
新政府側へ寝返った。そのため箱館戦争では榎本武揚率いる旧幕府軍に攻められること
となる。明治元年(1868年)土方歳三が指揮する旧幕府軍700名に、松前城の弱点である
城の背後を突かれ落城した。しかし、翌年新政府軍が奪回する。
というような話となれば、この本を読んだ方が 分かりやすいだろう。新撰組に関する
代表作筆頭ともいえる本なので、箱館戦争はほぼ巻末に近いところになるが、お勧めだ。
「燃えよ剣」〜司馬遼太郎
3b04cbf2
さらにもう一冊。
「菜の花の沖」 〜司馬遼太郎 全6巻の第3巻
北洋漁業を開拓し、函館の開発に尽力した高田屋嘉兵衛の生涯
中盤に差し掛かかり、蝦夷地へ進出していく過程で松前の地を踏む嘉兵衛。
先に記した、当時の松前の繁栄が描かれている。お勧め!
菜の花の沖

榎本軍による攻撃で落城した際、城主松前徳広と一族は海路で青森の弘前藩に落ち延びた。
蝦夷地における松前氏の終焉であった。

さて、今回念願の松前の地に至り、蝦夷ヶ島や松前城の来し方、幕末の箱館戦争などを
想いながら半日を過ごした。函館市内からレンタカーを使っての登城だったので、昼ビール!
とはいかなかったが、心地よい真昼の夢を見ているようで幸せであった。

ではでは。 

第102景 〜八幡山城

滋賀県を訪れる度に、点在する近江の城と城下町を歩いてきた。
近江八幡市もそのひとつあるが、以前二度の訪問時には十分な時間が取れず、
八幡山城への登城が先送りになったままだった。やっと2018年秋と2019年初夏と、
続けて登る機会を得たので、今回はその八幡山城から酔夢譚をおとどけしよう。
_RSD0299
八幡山城(本丸跡:瑞龍寺門跡):滋賀県近江八幡市宮内町19→Map  続日本百名城No.157
別名:近江八幡城  築城 :1585(天正13)年 築城主:豊臣秀吉,秀次   廃城年:1595(文禄4)年 
                                                                     (撮影:2018年11月・2019年5月)

まずは→Mapで八幡山城の地理的な位置を見ると、此処は琵琶湖畔、まさに戦国街道
と呼ばれる近江平野のど真ん中、要衝の地である。城は標高283m(比高100m)の独立丘陵、
鶴翼山、通称八幡山の山頂部に築かれていた。 写真2~3は城下の八幡堀から見上げた写真と
GoogleEarthの画像である。ともに現在のロープウェイの山上駅とラインが見て取れる。
_M1X0173
八幡山八幡堀
今は埋め立てで陸地となっているが、築城当時は琵琶湖の内湖が東西の山麓まで回り込んで
いた。琵琶湖へ直結し、城下を囲んでいたのが八幡堀である。防御施設の堀として、また
運河として商工業の発展に寄与し、廃城後も明治・大正期まで使われた。

IMG_8660
築城とその後の経緯を辿っておくと、
本能寺の変(1582年)で信長が斃れたあと、山崎の合戦で明智光秀を下し、続く賤ヶ岳の戦い
(1583年)で柴田勝家を破り、信長の後継者としての地位を固めつつあった羽柴秀吉。
その秀吉が大坂城につづき、天正13年(1585年)近江の地の軍事、経済の中心として自ら普請
を指揮し、新たに築城したのが八幡山城である。
城主には甥の秀次(18才)を置き、補佐役の筆頭家老田中吉政と合わせて43万石の城下とした。
秀次は天正18年(1590年)に尾張清洲城へ移封。代わって京極高次が入城。
文禄4年(1595年)秀次事件で秀次は切腹となり、築城から10年で八幡山城は廃城となった。

城郭は、山頂部の山城と、山麓の居館部分からなり共に総石垣造りである。
山頂部には、本丸、二の丸、北の丸、西の丸と出丸。山麓に秀次居館がある。
城下に家臣の屋敷を配し、内堀を掘った。旧安土城下から有力商人や職人を移住させ、
社寺を移転し城下町を形成したのである。

では登城順路に沿って見ていこう。
_RSD0263
二の丸下の石垣とお願い地蔵尊
麓からロープウェイで山頂に上がると、まず二の丸の石垣を見ることになる。
近世城郭の石積みを確認し、気分を高揚させつつ順路に沿って回り込むと、「お願い地蔵尊
が祀られている。 民間信仰のお地蔵様なので、戦国期の八幡山城とは直接関係はないが、
失礼のないように気を使いながら通過する。曲輪と曲輪をは帯曲輪で繋がれている。

_RSD0340

_RSD0303
本丸下の石垣
さらに本丸下の石垣が現れる。この辺が石積みとしては見所だろう。
本丸には天守台があり天守が建っていたという。いま生い茂る樹木も、往時は無かったはず
で、麓から見上げた総石垣の城は相当に威厳があり、光り輝いていたに違いない。

_RSD0291
本丸跡(瑞龍寺)
秀吉の姉で秀次の母、智(とも)が、秀次の菩提のため京都村雲に創建した日蓮宗の寺。
村雲御所とも呼ばれた。昭和36年(1961年)ここ八幡山に移された。
ここから本堂を見るのみだが、本丸の規模が凡そ確認できる。
写真1の門が本丸虎口跡で外枡形の構造となっていた。 
 _RSD0271文字入り。TIF
北の丸跡からの眺望
六角氏の観音寺城があった繖(きぬがさ)山と、その峰続き、安土城の安土山。
直線距離で5.5Kmくらいか。八幡山城の選地、縄張りの発想はそのまま信長の安土城の
設計思想を受け継いだものだろう。

_M1X0097
西の丸跡からの眺望
琵琶湖の水運を利用して、京、大坂と結ぶ。

城下にもどって
_M1X0069-2
日牟禮八幡宮

_RSD0368
八幡堀

_RSD0402
豊臣秀次 像
麓の八幡山公園に建つ束帯姿の秀次像。

豊富秀吉に関する史実や歴史小説に接する時、秀吉の身内のことは避けて通れず、
その度にやや気分も沈みがちになるのは、その誰もが決して幸福な人生を歩んだとは
言い難いからである。一代の風雲児秀吉、日の出の勢いの秀吉の陰で翻弄された続けた
人たちといっていいだろう。
特に甥の秀次は、その振り回され方が尋常でない。「殺生関白」など毀誉褒貶相半ばする
秀次像であるが、これまで秀次主体の本を読んでいなかったことに気づき、歴史小説から
一冊選んで読んでみた。 
有明の月
「有明の月」〜豊臣秀次の生涯:澤田ふじ子(廣済堂文庫)
文武に励み深い見識を備えながら心無い讒言により悲運の最後を遂げた秀次の生涯」
となっていて、女性目線で寄り添い、この秀次は正に白皙の貴公子として描かれている。
「有明の月」とは明るい時間に出る月のことなので 、日が強いほど霞んでしまう。
なるほど秀次の人生 を言い得て妙である!

 廃城から四百二十年、さらに明治、大正、昭和、平成という現代史のなかで
八幡山城跡である八幡山は格好の展望台となり観光施設化された。
現存する高石垣には生活のための配線、配管が這い回り、歴史遺産としては
惨憺たる有様となっているのが淋しい。続百名城に指定されたことでもあり、
十分な調査のうえ補修、保存、復元を期待したい。
それから今回も麓の秀次居館の方へ回る時間がなかった。
近江はまた近々来ると思うので、次回きっと確認し、追加で記載したい。

では また。





第101景 〜根室チャシ跡群

20代に何度も旅をし、時にはひと月ふた月と滞在したこともある北海道。
ただ今回の旅の目標であるアイヌのチャシというものを実際に見たことはなかった。
ではそれを見に、久しぶりの北海道は根室へ向けて出発!!!
_RSD0102
オンネモトチャシ(チャシ跡土塁)北海道根室市温根元→Map  日本百名城No.1
築城 : 16~18世紀 築城主 : アイヌ民族 丘先式チャシ (撮影日:2016年9月)

城跡を巡っている人達にはすでに知れ渡っている「日本100名城」というリストがある。
2006年、日本城郭協会が全国の城跡の中から、選定基準を満たした100城を発表。
翌2007年から100城スタンプラリーも開始され、いまでは城巡りの指針として広く
受け入れられている。そのリストの最初、No.1に登録されているのが今回の旅先、
「根室半島チャシ跡群」なのである。

チャシとはアイヌ民族によって築かれた「柵囲い」を意味する砦、城跡の総称で、
砦以外にも祭祀の場、集会所、漁の見張り場など多目的に使われていたものである。
北海道、千島列島、樺太から東北地方にかけてと広く分布し、道内には500ヶ所あまり
が確認されている。特に根室半島には32ヶ所のチャシ跡が集中しており、うち24ヶ所が
「根室半島チャシ跡群」として国指定史跡となっている。

根室市内では、現在2ヶ所のチャシ跡が観光用に整備されている。その一つがガイドブック
などに紹介されているこのオンネモトチャシである。温根元湾の西側に突き出した岬の
先端部分に盛り土をして平坦地を造り、堀で区画している。実際に使われていた頃には
柵で囲い、居館なども建てられていたようだが、今は盛り土と堀の跡が残るだけである。 

_RSD0065
オンネモトチャシ
温根元漁港側から見たチャシ。岬の先端部にあって盛土が二重になっている様子が分かる。
根室のチャシはそのほとんどが海岸の崖の上に半円形や角形の平地を造り、周りを柵で囲う
「面崖式」または「丘先式」という形式である。
さらにGoogle earthで見ておくと丘先式であり面崖式でもあることもよく見えてくる。
IMG_9421

折角の北海道らしい風景なので、国道からの順路を見ておこう。案内看板なども小さなもの
なので、入口を見落とさないように!ポツンとおかれた貨車に城跡の立て看板が目印。
_RSD0053
海岸方向へ向けてどんどん進む。
_RSD0052
前方オホーツク海には国後島や歯舞諸島の島影も見える。小さく見える建物は
野鳥観察用の小屋で、そこを右へ折れてさらに進むとチャシに至る。
_RSD0049
岬の先端部分に築かれる丘先式のチャシに到着。国道脇の駐車場からは10分程度。
_RSD0042
チャシ跡から温根元漁港方向を見る(写真1の逆方向)
後ろに見える塔は納沙布岬のオーロラタワーで、最東端の地であることがわかる。
_RSD0031
江戸から遠い日本最東端の地、直線距離でもほぼ1,000km!その道のりを思いながら、
誰もいないチャシ跡に一人立つ時、こんな境界標の「史跡」の文字にも、しみじみと
した旅情を感じてしまうのであった。
_RSD0040


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

つづいて翌日、もう一つのチャシ跡「ノツカマフ1・2号チャシ跡」
Google earthで見ておく。こちらもノツカマフ湾に面した崖上に1号と2号、
ふたつのチャシが残る。ノツカマフチャシ→Map
IMG_9420

江戸期にはこの地域を支配した和人とアイヌ民族の間で争いが起き、松前藩により
アイヌ民族が処刑されるという悲しい歴史の舞台となったチャシである。
_RSD0199
こちらも昨日と同じく、国道からの入り口を見落とさないように。
_RSD0173
ノツカマフ1号チャシ
_RSD0185
面崖式で半円形の壕がふたつ連結した構造となる。

100mほど北側の2号チャシへ
_RSD0137
ノツカマフ2号チャシ
壕の跡は深さ50cmほどと浅く見落としそうになる。
_RSD0143

……と、以上2ヶ所が現在訪問できるチャシ跡となる。
もちろん根室半島には、その他20数カ所のチャシ跡が存在するわけだが、現状アクセス案内も
なく、現地の整備も十分には出来ていないものと思われ、今回はここまでとしよう。

ちなみに私自身はスタンプラリーというものはやっていない。
城跡を歩いて現地をしっかりと実感し、さらに写真撮影に注力していると、
スタンプを押すためにその置き場所を探したりする時間がないのである。
100名城、根室半島チャシ跡群のスタンプは現地のチャシに置いてあるわけではない。
JR根室駅のすぐ前、根室市観光インフォメーションセンター内のカウンターあるので、
ラリー挑戦中なら忘れず押しておこう。
IMG_1326
北海道へはまた行く機会もあると思う、根室以外のチャシに立ち寄ることがあれば、
また追加で紹介していきたい。
と、以上が日本列島最東端の地からの酔夢譚である。実際、花咲蟹とか北海シマエビといった
美味い海の幸ばかりで、ついつい酒も進み、ホンマに城跡酔夢譚であったのだ!!!

ではでは



第100景 〜丸岡城

100回目の城跡酔夢譚、その100城目は日本で最古の現存天守を持つ(と言われていた)
丸岡城これは4年前、夏の暑い日の登城であった。
_OMD0009
丸岡城 (天守:現存) 福井県坂井市丸岡町霞1-59Map   日本百名城No.36
     別名 :霞ヶ城   築城年:天正4年(1576年)   築城主:柴田勝豊  連郭式平山城
                                                                                        (撮影日:2016年7月) 
先ずは、冒頭でも触れたこの天守にまつわる話から。
天正4年(1576年)柴田勝豊による築城だから、もしその時に建てられた天守ならこれは
現存天守の中でも最古の天守となり、次期国宝候補の呼び声も高かったのである。
確かに初層の大入母屋に望楼を載せた初期型天守は古風な佇まいを見せている。
ただ確実な史料がなく、江戸初期(慶長18年頃)の建造という見立てもあったのである。

そして、2019年3月坂井市から委嘱を受けて調査をした丸岡城調査研究委員会から、
「現存する天守は寛永年間(1624年~1644年)の建造と推定する」と結論が出された。
より新しい時代の建造だったという! 国宝が遠のく様な結果が残念ということかも。
しかし、400年間もそこに有り続ける木造建築、その勇姿は見事である。国宝であるか
ないかで見方が変わるようなら、その人の感性こそ怪しいと言わなければなるまい!

(*丸岡城天守は昭和23年の福井地震により倒壊、昭和30年に元の部材を用いて修復された)
_OMD0029
東側正面の石段を登って直接天守へ入る。一階外壁は漆喰塗籠に下見板張り。すそ部分に
雨水を流す水切り屋根が付く。入母屋破風に載る鬼瓦は屋根瓦と同じ笏谷石製。

では改めて、丸岡城の歴史をおさらいしておこう。
天正3年(1575年)、織田信長は一向一揆を平定し、越前北庄(きたのしょう)に重臣柴田勝家
を配した。翌年、柴田勝家は北庄城の支城として、一揆の拠点であった豊原寺跡に豊原城
築き甥の柴田勝豊を置いた。勝豊は勝家の甥であるが、勝家に子がなく養子となっていた。 
翌天正4年 、勝豊は4km西の丸岡の地に新たに城を築く、これが現在の丸岡城である。

独立式の天守は二重三階の望楼型。屋根瓦には、冬季の凍結による破損防止のため石瓦が
使われている。これは足羽山や一乗谷でとれる笏谷石(しゃくだにいし)である。石瓦は
約6000枚、重さ120トンあるという。震災寺には大部分が割れてしまったというが、
手作りで再製された。

 _OMD0005
西側、お天守前公園から見上げた天守。平山城に分類されるが、高台程度の高低差。
この公園辺りは堀と三の丸の武家屋敷があったところ。

ここで一度、縄張り確認のため正保城絵図を見ておこう。
本丸と二の丸が連郭式にならび、五角形の内堀が囲む。そのまた周りを武家屋敷を配した
三の丸が囲むという縄張りとなっている。さらに外堀まで含めても東西700m、南北1km
という小さめの城域である。
downloadのコピー
(国立公文書館蔵)
Google earthで現状を確認しておくと、本丸跡は樹木が生い茂ってはいるが、
ほぼ原型を留めているのが分かる。しかし、堀は埋められ、二の丸、三の丸には
今は民家が立ち並んでいる。
GoogleEarthのコピー
GoogleEarth

では、現存天守の中へ。

(上段)望楼部分の三階(天井の間)は柱や梁の木材と構造をそのまま見せている。高欄付きの
廻縁が一周している。現状は外に出ることはできない。もともと装飾的な廻縁だろうか?

(中段)一階入母屋破風内の「破風の間」と望楼二階の窓から見る「石瓦」と城下町。

(下段)一階に展示された丸岡城ジオラマと鉄砲狭間。
_RSD0202 2_OMD0058                                              
_RSD0213_OMD0073









_RSD0218_OMD0042








 
流石に現存天守。小振りとはいえなかなか見所の多い天守だと思う。
そして今日の一枚は、
天守台北側の石積み。一階格子出窓と突き上げ格子窓。
加工していない自然石の形と色合いが一番印象に残ったので撮影。
_OMD0130
天守台の石積み

その後本能寺の変の後、清洲会議により勝豊は近江の長浜城に移され安井家清が城代に。
 さらに柴田勝家が秀吉により北庄で滅ぼされると、丹羽長秀の城代として青山宗勝、慶長に
入り結城秀康の丸岡城城番として今村盛次と城主がめまぐるしく変わり、慶長18年本多成重
が入城する。寛永1年(1624年)成重は福井藩より独立し、丸岡藩4万3千石が成立した。
先の調査結果によれば、この本多成重の時に今の天守が築かれたことになる。
丸岡藩は本多氏4代、有馬士8代で明治維新を迎え、城は天守を除き全てが破却された。
となかなか覚えきれないが、とにかく天守だけが四百年を生き抜いたということだ!

最後に別名の「霞ヶ城」についてだが、その昔、合戦になると「雲の井」という井戸から
大蛇が現れ、口から霞を吐いて城を覆い隠した!!という伝説の井戸が本丸に残っている。
その他、人柱お静の伝説など戦国伝説も伝えられているが、長くなるし、その辺は各自の
判断にて対応していただこうかな!

 _RSD0225
霞の井
全国に12ヶ所しか残っていない現存天守。この丸岡城でその全てに登城することができた。
私は百名城スタンプラリーに参加していないが、記念にそのスタンプ写真を撮っておいた。
 _OMD0115
ではでは。
(101景以降も続く予定です、ネタは山積しておるよ) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
追伸
今年2020年、2月に久しぶりにこの現存天守と対面。
ちらつく雪の中で見た天守は相変わらず古武士のような風格があって
改めて「素晴らしい!」と思えたのであった。 

第99景 〜岩村城

今回第99景は岐阜県恵那市岩村で、近世山城に体当たりしてみた日の酔夢譚である。
標高717mという高地に築かれた城、岩村城のことだが、そこには見事な近世城郭の石垣が
そびえていた!同様の高取城(奈良県)、備中松山城(岡山県)と併せて日本三大山城だという。
では、早速行ってみたい。
_RSD214
岩村城 (本丸虎口・六段の石垣):岐阜県恵那市岩村町字城山→Map 日本百名城No.38
別名:霧ケ城 築城主:遠山景朝 築城年:1221年(承久3年)頃 梯郭式山城
                                                                                     (撮影:2016年10月)

東京から高速バスと鉄道を乗り継ぎ、早朝に岩村駅に到着。
城下にある案内所はまだ準備中だったが、そこで「数日前、熊の目撃情報ありました、
お気をつけて」と教えられた。「えっ、今言うなよ〜!!」でも、今言わなきゃ意味が
ない大事な情報だしなぁ、などと思いつつ城下町を抜けて登山口へと向かった。
いざとなったらカメラ用の一脚で熊と戦う覚悟はできている……つもりだ。
ちょっとビビりながら朝露の残る道を本丸を目指し、ひとり登って行ったのであった。
(岩村でのクマ出没などは稀なことらしいので現状は大丈夫、かな)                                                                                      
では、先ず岩村城の略歴から。
築城は鎌倉時代初期、源頼朝の重臣加藤景兼の長男遠山景朝が築城とある。
この初期は平地に築かれた砦、城館のようなもので遠山氏代々の居城となった。
戦国期になると岩村は甲斐武田(信玄)、尾張織田(信長)の勢力争いの地となり戦国期の
山城として徐々に整えられていったと考えられる。

遠山氏は列強相争う地にある弱小領主であったということだ。そこで生き残るための政策と
して外交を重視、列強に両属し折り合いをつけながら生きるしか道はなかった。
そして、この岩村城は「女城主の城」として後世に伝えられるようになるのである。
元亀2年(1571年) それまで武田家を後ろ盾にしていた頭首遠山景任が病没し、岩村遠山氏の
血統が途絶えた。そこに東美濃の支配権を狙う織田信長が自分の五男(四男説もあり)御坊丸
を養子として送り込み頭首に据えた。しかし、御坊丸はまだ幼少であったため、その後見を
任されたのが景任の未亡人「おつやの方」だった(つやという名の正式な記録はないと
いう)。事実上の城主、岩村城「女城主」の誕生であった。 

その「おつや」は織田信長の祖父織田信定の娘で、信長の叔母に当たる。このように織田、
武田ともに折り合いをつける外交を続けていたということだ。
すると今度は武田方も巻き返しに出る。翌元亀3年(1572)10月、武田信玄は西上作戦を
開始、岩村へは配下の秋山虎繁の軍5千を送り込み、岩村城は秋山勢に囲まれてしまう。
この時、秋山虎繁は自らと城主おつやの婚姻を条件に開城を迫り、つやはそれを受け入れた。
その結果今度は御坊丸が人質として甲斐へ送られ、秋山虎繁が城主として岩村城へ入った。
また武田方へ下ったということで、岩村城はまたしても織田方から攻められることとなる。
織田勢は長篠の合戦で武田勝頼に大勝した勢いで、信忠率いる3万の群で岩村城を囲み落城
させている。信長は降伏した秋山虎繁、つや両人を磔刑に処してしまった。

この一連の事件が歴史秘話としていまに語り継がれているのである。これについてはまた
あとで触れてみよう。
織田方の城となった岩村城は河尻秀隆森長可が城主となる。この森氏時代に近世城郭への
改修が進められ、ほぼ現在の形になったとされる。
関ヶ原の後は、大給松平氏、丹羽氏が引き継ぎ明治維新後に城は解体された。

_RSD127
本丸跡
頂上部の本丸跡。石積みで囲まれた本丸跡。隅部に櫓が建ち、その間をつなぐ多聞櫓と
塀が囲む往時の岩村城を想像してみた。

_RSD108
大小17箇所もあった城門跡

_RSD185
 本丸東側の石積み
東側入口を固める門の石積みが見事である。現地を見て思うのはこの石積みの保守管理の
素晴らしさだ!下草はきちんと刈り取られ、見やすく、また歩きやすくなっている。
町を挙げて草刈りの奉仕活動などがなされているらしい。有難いことである。

_RSD197
本丸下の石垣

_RSD013
太鼓櫓(復元)と表御門(復元)

_RSD021

正保2年(1645年)、城主が大給松平氏から丹羽氏へ変わった後に幕府に
提出された城絵図。
download
正保城絵図:美濃国岩村丹羽式部少輔居城絵図 (国立公文書館所蔵)

女城主つやと秋山虎繁の戦国最中の婚姻とその後の運命は史実であり、戦国秘話として
再三取り上げられている。取り敢えず以下の二冊を読んでおいた。
IMG_3862
 霧の城 〜岩井三四二(実業之日本社文庫)
 花散る城 〜喜安幸夫(光文社時代小説文庫)

_RSD345
 岩村の城下町

_RSD008
城下朝のひと駒

今日の一枚は、本丸の六段の石垣を、城のシンボルとも云われる登り口の巨石とともに
撮ってみた。もともとここにあった自然石をそのまま活かした普請だろうか。
ここは本来、横位置構図で城跡の広がりも同時に写し込むべきところ。
しかし、実は登り口の真正面に案内看板が立てられていて、そこを避けた結果の縦構図
となってしまった。(看板は後日、移動されたらしい) 
_RSD263
早朝から城跡と城下町を十分に堪能し、日も暮れる頃に恵那インターから
再び高速バスに乗って江戸へ帰るという、充実の一日であった。

 じゃぁ また。

第98景 〜若桜鬼ヶ城

紅葉の季節となり、さて何処へ行こうかと考えた。
そういえば米子城が続百名城に入ったり、松江城天守内の展示が変わった、等々思い出し
「そうだ!山陰、行こう」となった。そして今回筆頭の目的地が、この若桜鬼ヶ城
あった。「わかさ・おにがじょう」と読む。今回はその鳥取県若桜町から鬼ヶ城の巻!
 _RSD0330
若桜鬼ヶ城(本丸跡)鳥取県八頭郡若桜町若桜→Map 連郭式山城 続日本百名城No.168
別名:若桜城、鬼ヶ城 築城年:正治2年(1200年)  築城主:矢部暉種(あきたね)
改修者:木下重賢、山崎家盛                                    (撮影日:2019年11月)

若桜は中国山地の山々に囲まれながらも、播磨・但馬へ通じる街道が交わる要衝の地である。
鬼ヶ城は、その街道を見下ろす鶴尾山の山頂部から尾根に曲輪を設けて築かれた山城だ。
築城は鎌倉時代まで遡る。この地の国人領主だった矢部氏、その始祖矢部暉種(あきたね)が
駿河からこの地(因幡国八頭郡山田村ほか20ヶ村)を得て入部して築城した。

以後、矢部氏十六代の居城であったが、天正3年(1575年)山中鹿之介に奪われ尼子氏再興の
拠点の城となった。しかし翌年には吉川元春に攻められ毛利氏の手に移る。
その後、羽柴秀吉の中国攻めで鳥取城が落ちると、配下の木下重賢が2万石で入城し、
石垣や天守台を築き近世城郭へと改修された。山頂部の石積みはこの時代のものだろう。
関ヶ原合戦の後、西軍についた木下氏は移封となり、山崎家盛が3万石で入封、若桜藩初代
藩主となる。さらに池田光政が鳥取城入城後、元和3年(1617年)一国一城令により鬼ヶ城は
廃城となった、というのが鬼ヶ城の略歴だ。
この元和の廃城の際に破城が行われ、その痕跡が色濃く残っているのが鬼ヶ城の特徴である。

_RSD0422-3
本丸下の石垣
階段状、三段につまれた石垣。いわゆる段築構造になっている。

場所と地形をGooglr Earthで見ておこう。
要衝の地とはいえ、中国山地の山深い地域だ。冬季には町全体が豪雪地帯だという。
IMG_0133
                                                                           GoogleEarthより

今回は、若桜駅から全て徒歩で山頂の城跡を目指した。その登城順路に沿って見てゆこう        
_OMD0049
若桜駅 
JR因美線、鳥取発7:22に乗り、3駅目の郡家(こおげ)で若桜鉄道に乗り換え。 
終着駅の若桜駅に8:14到着、鳥取から52分の旅だった。駅から登山口まで徒歩10分程。

_OMD0104
鬼ヶ城が築かれた鶴尾山。 町からの比高は250mほど。
登山道が2本、他に林道を通って車で頂上近くの馬場まで上がることもできる。

_OMD0055
旧若狭小学校グランドの登山口(八幡山ルート)
登山ルートは2ルートあるが、今回はこちらから登ることに(山頂まで35分の表示)。
しかし、途中で合流する古城ルートで本丸を目指すことにした。

_OMD0057
登山道はよく整備されているが、足元の備えは十分な準備をしておきたい。

_RSD0312
三の丸 大手門跡の石垣
このルートで頂上を目指すと、まず三の丸の石垣が現れる。やはりこの瞬間は気持ちも弾む。

_RSD0326
三の丸大手門跡の石垣(二の丸から見る)
三の丸東側の大手門跡に内枡形虎口の石積みが残る。今回は登山道ルートで登ったため、
最初にこの大手門跡を見ることとなった。

_RSD0338
二の丸
三の丸から一段上がると二の丸、さらに本丸へと連郭式に続いている。

_RSD0370
本丸からの景色
但馬街道(左)と播磨街道(右)に通じる要衝の地だったことがよく分かる。

_RSD0416
本 丸
二の丸からさらに一段上がった位置に本丸がつづく。天守の礎石も残っている。

_RSD0387
天守台跡

_RSD0380
本丸からの景色
連綿と続く山の尾根を眺め、この山城が機能していた戦国の世に想いを馳せる。

_RSD0432
本丸の石垣
隅石が崩され、崩落した石材に破城の痕跡がありありと見て取れた。

_RSD0474
六角石垣
そして鬼ヶ城のもうひとつの見どころ、西尾根の先端部「六角石垣」へ。
山頂部の石積みより古い時代の積み方で、ほぼ完全な形で残っているという。
「何が六角なのだろう、積み方、石の形状?」 と思っていたら、これは曲輪の形が平面図で
六角形ということらしい。なので「六角曲輪下の石積み」ということだろう。
積み石の形状、石質ともに本丸あたりとは違っている。生い茂り紅葉した雑木に囲まれ正に
埋もれた古城という佇まいに惹かれるものがあった。写真集用にも別撮りしておこう!

_RSD0498
馬 場
林道を使って登るコースの場合、この馬場側から見ていくことになる。駐車スペースあり、
車で上がることができる。ここから堀切など見ながら本丸を目指すと、山登りの必要も
なく、お勧めのコースとなる。先に本丸下の崩落石垣に出会うことになり、破城の印象が
より強く感じられるかもしれない。もちろん40分の山登りコースも決して悪くないが!!!
石積みのある山城、さらに一国一城令による廃城、破城という痕跡を色濃くとどめている

廃城をゆく6       
「廃城をゆく6」〜石垣の城を極める
             イカロス出版 
鬼ヶ城については知人から情報を
もらっていたのだが、この号の記事を
見て登城を決めた次第である。
他にも有名無名含めて魅力的な石垣の
城がズラッと並んでおり石垣ファン
必携の書である。
ちなみに巻頭のグラビアページは
「石垣百景」として、石垣のイメージ
写真に拙作を数点使ってもらっている。
是非、店頭で手にとってご覧ください。 

ということで、最後はちょっと自己宣伝
となってしまったが撮影もうまくいき、
破城の跡を見るという印象深い登城と
なった。若桜鬼ヶ城は山城、石垣好きには必見の城である。 是非の登城をお勧めして鬼ヶ城の締めくくりとしたい。

じゃぁ また。


 

第97景 〜島原城

私の郷里、熊本県宇土市から有明海を挟んで対岸に位置する、長崎県の島原半島。
そこに幕藩時代、島原藩の政庁だった島原城がある。久々の城郭酔夢譚はこちらから。

09_OMD0008
島原城(天守と櫓:再建)長崎県島原市城内1-1182 →Map   日本百名城No.91
別名:森岳城 高来城  築城:1624年  築城主:松倉重政 連郭式平城   (撮影:2016年7月)

本丸を囲む水堀越しに見る島原城。連なる高石垣が刻む旋律美と陰影。再建された
大天守と三基の三重櫓、続く長塀は白く輝き、南国の青空とコントラストをなす。
まさに近世城郭の美しさが凝縮された一幅の絵を見る思いである。
それでも再建は一部であり、往時には三十三の櫓が林立する一大城郭であった。

築城主は松倉重政。松倉氏は代々大和筒井家の家臣だったが、重政は関ヶ原の直前に
家康方につき、関ヶ原合戦や大坂の陣で少々の軍功を上げた。そして1616年4万石の
大名としてここ島原に入封した。
重政は一度は前任の有馬氏が居城とした日野江城に入城するが、すぐに自ら森岳の地に
築城を開始する。1618年から七年もの歳月と、おびただしい労力を注ぎ込んで、小大名には
不相応なこの島原城を完成させている。
そのための重税とキリシタン弾圧は、重政とその子の勝家の二代に渡って続き、1637年
ついに天草・島原の乱が勃発する。この江戸期最大の 内戦を引き起こした責めで松倉氏は
二代で断絶した。その後は高力、松平など徳川家譜代の大名によって 藩庁として存続、
城下も整備され明治維新を迎えている。 

そういう概要については初回(2014年4月)の訪問前に司馬遼太郎の「街道をゆく17
〜島原・天草の諸道で確認していた。一冊を通して司馬遼太郎は松倉二代の悪政を、
いつにも増して徹底的に糾弾していて、読み進めるにも気が滅入った記憶がある。 
が、ここは城郭探訪記ということに立ち返り、この城を見直しておきたい。

_OMD0009
水堀と本丸・西櫓(再建)
現在本丸へ入城する南西側の土橋であるが、これは後年付けられもので江戸期には
なかった。本丸は水堀で囲まれ、二の丸側から架けられた廊下橋一本で結ばれていた。
 
_OMD0150
本丸と二の丸の間の堀  
右手が本丸、左の二の丸とは廊下橋で繋がれていて、橋を落とせば本丸は独立し
籠城することもできた。

ここで一言申し上げれば、写真の通り、石垣の隙間に根を張る雑草が伸び放題で、
石材の表面まで覆っている。修復されながら築城時から現存する高石垣、折角の
見どころが少し残念な様子になっている。石垣の保守管理を徹底していただけたら
嬉しいのだが……。

正保城絵図の島原城図も添えておこう。
downloadのコピー
(国立公文書館蔵)

では、昭和39年に復元された天守を見てみよう。
_OMD0029
天 守(西櫓側から)

_OMD0080

松倉重政が築いた天守は五層五階の層塔型天守だった。当時の新しい形式で上階が
下階より規則的に逓減し、盃を重ねた塔のような形となる。
また天守の装飾となる破風が全く付いておらず、これは籠城の際、天守より鉄砲を放つ
ための配慮とも言われている。この天守は鉄筋コンクリートによる外観復元で、内部は
歴史資料館である。1階がキリシタン資料で島原の乱にまつわる展示。2階に郷土史料と
して松平家家宝や歴代藩主の紹介。3階が民族史料として、庶民の生活史料が展示されている。

天守台のすぐ近くまで、来場者用の駐車場が設けれれている。便利には違いないが、これも
折角の美しい城跡を風情のないものにしている、と思うのだが……。

_OMD0059
天守からの景色(巽櫓と島原市街)
五重天守は高さ33m、最上階に回縁が復元されていて四方を見晴らすことができる。
城の背後、西には眉山が迫り、東は青く開けた島原湾、対岸には熊本市と阿蘇山。
さらに宇土半島から天草上島の島影を望む絶景である。

_OMD0064
天守内部の展示

_OMD0169
雁行する高石垣
水堀には廃城後に植えられた蓮が茂り、背後には1792年(寛政4年)噴火により崩壊した
眉山が迫る。見どころの一つである。

名称未設定 1
街道をゆく17〜天草・島原の諸道
司馬遼太郎:朝日出版社

先に紹介した街道をゆくであるが、島原半島、
天草諸島について、戦国期から現在に至るまで、
地理的、歴史的に作者独自の視点で捉えられた紀行文であり、一読をお勧めしたい。
今に残る武家屋敷街や島原の街の描写も心に残る。
天草・島原の乱についても詳しいが、関連して対岸の我が郷里、小西行長の宇土城も出てきて、いつもながら大変に興味深く読ませてもらった。
 





_OMD0185「鯉の泳ぐまち」
眉山からの湧き水が水路を
流れ、清廉な水を泳ぐ鯉が、
島原の街に風情豊かな色彩を
添えている。
武家屋敷街など、市中散策も
欠かせない。














最後に島原の郷土料理をひとつ「具雑煮」という。
_OMD0118
具雑煮
島原の乱のとき、原城に籠城した天草四郎時貞を総大将とする一揆軍は、農民に餅を兵糧
として貯えさせ、山海の材料を集めて雑煮を炊き、三ヶ月戦った。
これをもとに文化10年(1813年)姫松屋初代、糀屋善衛門が作ったというのがその由来である
(姫松屋案内パンフレットより)
島原城の西門のすぐ前に姫松屋本店があるので、登城のついでに寄ってみて。

 という島原城からの酔夢譚、近々帰省の折には、是非もう一度訪れてみたいと思っている。

じゃぁ、また。

第96景 〜名古屋城

尾張名古屋は城で保つ、というのは歌の文句、伊勢音頭の歌詞だ。
正調の伊勢音頭を聞いたことがなくても、このフレーズはきっとご存じのはず。
今も名古屋の真ん中に巨大天守がそびえ、日本三大名城に数えられる名古屋城。
では、この名城は、いつ、誰が、何のために、どうやって建てたのか?
実はそこを押さえておくと、戦国史の一頁がストンと手の内に収まるのだ。
そんなことを想いながら歩いてみた桜満開の名古屋城の巻である。
_RSD0085
名古屋城 (大天守 復元): 愛知県名古屋市中区本丸1-1→Map  日本百名城 No.44
別名:蓬左城、金城 築城:慶長15年 築城主:徳川家康 梯郭式平城 (撮影2017年4月)

いつ、誰が?
名古屋城の築城開始は慶長15年(1610年)、築城を命じたのは徳川家康
天下分け目の関ヶ原の戦い(1600年)で石田三成率いる西軍に勝ち、征夷大将軍となった家康
は本拠の江戸城と、その後大御所政治の拠点となる駿府城をともに天下普請で大改修した。
天下普請とは徳川幕府が諸大名に命じて行わせた土木工事のことで、家康に従うという武将
の忠誠心を試し、経済的負担を負わせて力を削ぐという徳川らしい嫌らしい手法のことだ。

何のために? 
関ヶ原後の家康の願いは、ただただ徳川家の繁栄と安泰であり、奪い取った天下を再び奪い
返されないための対策を尽くし続けたと云っても良い。
関ヶ原直後の1601年から十年ほどの間に、膳所城(ぜぜじょう)、二条城、加納城、彦根城、
丹波亀山城、伊賀上野城、篠山城などをすべて天下普請によって築城または改修させている。
これらの城を俯瞰してみると、これは大坂城をぐるりと取り囲む配置となっている。

当時、大坂城には豊臣秀吉の遺児秀頼がいて豊臣恩顧の大名と共に天下を奪い返しに来る
恐れが充分にあった。 それを押さえるための一連の築城だったが、その仕上げとして万一
包囲網が破られ、西軍が江戸を目指したときこれを東海道で迎え撃つための城。
それが名古屋城だったのだ!名古屋城は江戸を守る最後の防波堤だった!

どうやって?
もちろん名古屋城も天下普請によって建てられたのだが、関ヶ原当時、尾張の中心は清洲
で、清洲城は豊臣恩顧の福島正則の居城だった。
家康はまずはこの煙たい男、正則を安芸(広島)へ移封つまり追っ払って四男松平忠𠮷、
ついで九男義直を清洲へ入封させている。
その後1609年、かつて今川氏の居城で、その後織田信秀が奪い取った那古野城の位置に、
城だけではなく町ごと形成する大事業として名古屋築城を命じたのだ。
普請奉行は当時の築城エキスパートだった佐久間政実、滝川忠征ほか。
豊臣恩顧の諸大名20家が駆り出されている。加藤清正の石垣普請での尽力は有名だ。 
さらに清洲を町ごと移住(清須越し)して、慶長17年(1612年)頃にほぼ完成をみた。
江戸と同じく名古屋の基礎を築いたのは、(好むと好まざるにかかわらず)徳川家康だ!

その後は?

ご存じのとおり家康は悪知恵を最大限に働かせ、大阪の陣で豊臣家を滅ぼし徳川安泰の世を
築き上げた。慶長12年には徳川義直が初代尾張藩主となり、尾張徳川家は御三家筆頭として
威光を放ち十七代で明治維新をむかえている。

天守炎上 
維新後も多くの遺構を残していた名古屋城(当然国宝)だったが、昭和20年(1945年)5月の
米軍による無差別空爆により 大天守、小天守、本丸御殿、本丸御殿などを焼失した。
(一般市民の居住地区になんてことするんだ!!ばかやろうめ)

天守再建 
昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで天守が再建され今に至る。
 2008年より本丸御殿の再建工事が始まり、現在は一部公開中で2018年の完成予定である。 
・・・・・・・・・・・・・・

というようなことを、想いながら名古屋城を歩いてみたらどうだろう。
単に名古屋の金のシャチホコで有名なお城、天守のてっぺんまで登ってきた!
ではなく、天守はもちろん堀や石垣の一個まで違った見えてくるかも。
……と、以上は城歩きカメの勝手な城郭酔夢譚!なので無知、思い違いによる瑕疵に
ついてはノークレームノーリターンでお願い申し上げまする。
特に徳川家に恨みなどはござりませんので……。 
 
_RSD0003
外堀 
正門からいきなり城内へ入らず、外堀に沿って時計逆回りに一周してみる。
二の丸の石垣が続き桜が美しい!城は攻めて見よ、守って見よである。
_RSD0057
北西隅櫓
御深井丸(おふけまる)西北隅に建つ現存の三重櫓。かつての清洲城天守を移築した
とも云われ清須櫓とも。他の城の天守より大きい櫓である。 _RSD0152
鵜の首天守
西の丸と御深井丸の間の細く入り込んだ堀。防衛上の構造構造でこれを鵜の首という。
_RSD0070
西南隅櫓(坤櫓)天守

_RSD0092
大天守橋台
大天守と小天守を橋台で結んだ連結式の天守。
_RSD0145
内堀東南隅櫓

_RSD0185

やはり満開の桜と石垣に惹き付けられる登城だった。
ところで名古屋市では老朽化した天守の 再建計画が進行中で、木造による再建案もある
という。今回ひさしぶりに天守に上がってみて思うに、この巨大な天守の木造再建、
費用対効果の点からもちょっと心配である。
次から次に訪れる多くの観光客を眺めていると、城の構造などほとんど誰も見ていないし、
維持管理費も嵩みそうかな、とは要らぬ心配だが、名古屋のことは名古屋に任せるという、
いつものスタンスでお茶を濁しておこう。

じゃぁ また
 
写真と記事 : 後藤 徹雄
画像をクリックすると
拡大表示します

青文字はリンクです



プロフィール

rightstuff_photos

・・・・・・・・
メッセージ

名前
メール
本文