今日はなんだか可愛らしい名前のお城、久留里城(くるりじょう)である。
って、何処にあるかいうと千葉県。房総半島の真ん中辺り、君津市久留里の山の上に建って
いた。では、早速行ってみよう。
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久留里城 (模擬天守) : 千葉県君津市久留里字内山→Map  連郭式山城
 別名: 雨城 築城年: 康正2年(1456年) 築城主: 武田信長  再建: 1979年: 模擬天守  

いつものように、簡単に築城~再建と記しているが、この間実に五百数十年である。
築城は室町時代中期、8代将軍足利義政の時代、上総守護代となった武田信長による
ものと伝わる。典型的な中世山城であった。
JR久留里駅から1km強、城下町を抜け途中林道などを歩き、城山の山頂を目指して
登っていくと、突然目の前にやや小振りながら、立ち姿も美しい二層の天守が現れる。
印象深く記憶に残る天守との出会いとなった。
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天守(模擬天守)と天守台遺構
手前の盛り土状の部分が実際の天守台の遺構。天守はRC構造二層三階建。

城主は合戦の結果や支配者の意向によって頻繁に入れ替わるのが常だが、
久留里城も例外ではなかった。
武田氏に続いて房総に勢力を張った里見氏が入城、関東の支配権をめぐって
小田原北条氏と激しく争った。江戸時代に入ると久留里藩の藩庁となり、
徳川家譜代の大須賀氏土屋氏と続きながら、近世城郭として整備され、
城下町も発展する。
その後一度廃城となっていたものを、1742年同じ譜代の黒田直純が三万石を得て再興、
黒田家は維新まで続いた。
そして明治5年の廃城令を持って久留里城はその長い歴史を終えたのである。
1979年(昭和54年)天守が再建され今日まで市民や近郊からの行楽客に親しまれている。

黒田直純が幕府に差し出した再建計画の絵図面を見ると、確かに二層瓦葺きの櫓が
描かれており、天守のような象徴の意味もあったかと思われる。
構造に関しての正確な史料がないため、一般的な「お城」「天守閣」としての印象を
優先して、三階建展望台付きで、浜松城に似せた形で建造されているのだ。
これは史料に基づかない観光用の模擬天守ということになる。

こういう模造についてどう考えるのかと問われたら、
アイコンとしての天守再建であり、個人的には余程唐突なものでなければ
良しとする立場である。久留里城もこの天守がなかったらちょっと寂しい城山かも。
無常観はあるけど。
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二の丸から城下の眺め

標高140mほどの城山からの景色も素晴らしく、紅葉や桜の季節の美しさも想像できた。
二の丸の久留里城址資料館は、ここ久留里の古代から明治までの史料を展示していて
入場は無料。さらに資料館の傍らに像が建っているので近付いてみると、

_RSD0302新井白石像だった、アライハクセキ!
むかし日本史で憶えさせられたような〜

江戸時代中期、徳川6代将軍家宣の侍講(君主に学問の講義をする学者)から幕政改革に参画し7代家継まで仕えた政治家・学者だ。
お好きな方には申し訳ないが、私が一番眠くなるあたりである
白石の父が久留里藩土屋家に仕えたことで、白石も久留里城下に数年住んだことがある、という縁らしい。
藤沢周平「市塵」という作品があって、これが新井白石の生涯を描いている。僅かに一行久留里・土屋家も出ていたが、一瞬のことで、全体にちょっと眠かった……のでお勧めはしないけど。


久留里城の方はすっかり気に入ってしまい、ひとにも勧めて
しまった。
城下町のことも紹介したかったのだが、少々長くなってきたので、これはまた別項でお伝えしよう。
最後に、JR久留里線の単線ローカル鉄道感がなかなか良かったのでひと駒追加しておこう。

じゃぁ また
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