夏休みの八月、国内さらに海外へと旅行の話題賑やかなこの時期だが、
個人的には関東圏での日帰り小ちゃな旅で茶を濁すのが定着してしまった。
初回が2010年の埼玉県行田市の忍城。他にも千葉の久留里城へも行ってみたのだった。
で、5年目の今年2014年も城狙い、しかも一日二城巡りを決行した(基本1日1城)。
では、その一城目群馬県高崎市の箕輪城(みのわじょう)への登城記から。

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箕輪城 (城跡碑) : 群馬県高崎市箕郷町東明屋→Map  梯郭式平山城 日本百名城No16
築城 : 1512年  築城主 : 長野業尚   廃城 : 1598年   (撮影日:2014年8月)

旧群馬郡箕輪町は2006年に高崎市に編入されたそうだ。
高崎駅からはバスで30分ほどの距離で、この辺りまで来ると
「ここも高崎市ですか?」と確かめたくなるほど長閑かなところ。
箕輪城は榛名山の東南麓に広がる独立丘陵に曲輪を配した平山城だ。
その名は、形状が箕(み)に似ていることに由来するそうで、箕とは竹で編んだ
農具、前方だけが平たく開いたザルのような物だ(穀物をすくって振るう)。
確かにパンフレット掲載の航空写真や図面を見ると、前方に椿名沼(跡地)が開き、
左右から尾根が囲みこんでいてまさに箕輪の形状がよく分かる。
また発掘調査の結果、虎口門の礎石などが完全な形で残っていて、今年から五カ年計画で
門や木造橋の復元事業が始まるという。やはり何かアイコンは欲しいし、楽しみである!

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上空から見た箕輪城跡   
確かに箕の形をしている(GoogleEarthより)
箕輪城は比高50m程度で、平山城と分類されるようだが、実態は典型的な戦国期の山城の様相を呈していた。

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本丸南堀 : 幅30~40m、深さ10m以上の空堀跡が本丸を囲む

今では長閑かな高崎市郊外だが、戦国時代の上野国といえば関東支配を目論む
三大勢力による動乱、抗争の真っただ中に置かれていた
関東全域に支城を配置し北関東まで勢力を伸ばす小田原北条氏、三代北条氏康
戦国最強の騎馬軍団を率い信濃からさらに北関東を窺う甲斐の武田晴信(信玄)
上洛を果たし関東管領上杉家の後継者となった越後の長尾景虎 (上杉謙信)
と巨大勢力の三つ巴の覇権争いに上野土着の豪族は巻き込まれていた。
追従し支配下に置かれるか、争って攻め滅ぼされるかの瀬戸際だ!!!

ここ箕輪城もその例外ではなかった。
城主は長野業政(なりまさ)。長野氏は関東管領上杉家の重臣で、管領上杉憲政が北条に
追われ越後亡命後も北条には従わず、上野の有力土豪と上野国衆連合を組んでいた。
そこへ西から圧倒的に勢力の勝る武田軍の侵攻を受け、まさに存亡の危機となる。
絶体絶命、どうする業政!・ってテーマの本があったので読んでみると……。

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業政駈ける 〜火坂雅志 
作者あとがきに、
かつて関東の城を調べていて、武田軍をその知謀をもって幾度となく撃退した「長野業政を小説にすることは私の長いあいだのゆめであった」とあり、
まさに最強武田軍vs弱小箕輪衆 の戦闘記だ。
武田軍最初の西上野侵略、箕輪城攻めから始まり、越後の謙信との邂逅、真田幸隆ほか信濃上野の諸将との関係も詳しく、 特に上州の気候風土、上州人気質が細かく描かれている佳作である。
長野業政といえば武田信玄に一度も負けなかった
武将ということで、巨大資本に立ち向かう中小零細という例え話にもってこいの人物となるわけだね。ラストミニッツレスキュー(どんでん返し)でヒーローになるのは実は……(後は読んでみて)
 

散々信玄を手こずらせた業政も1561年病没。あとを継いだ長野業盛も五年後、西上野計略と箕輪城攻めに執念を燃やす武田軍二万に攻められついに落城しました。
十九歳の業盛は自刃し長野氏は滅亡・・といういつもの戦国悲話となるのであった。 

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御前曲輪 : 通常の本丸にあたる曲輪若き業盛はここで果てた。

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鍛治曲輪の石垣
石垣は近くの榛名白川の川原石を利用したようだ。

落城、長野氏滅亡の後は、武田や織田、北条さらに徳川の配下が城主となったが、
最後は井伊直政十二万石でした。今残る縄張りは最後の徳川配下のものです。
直政は城を高崎に移したため、箕輪城は1598年に廃城となりその役割を終えた。

ということなので、高崎の初代藩主は井伊直政ってことだね!
なので、当初の目標の前に高崎に寄ってみることにしよう。
一日三城へと変更だ!!!
次はたかさき〜!

じゃぁ また