石蕗(ツワブキ)の生える野、から転じて津和野というのだそうだ。
兼ねてよりその詩情溢れる名の町を訪ねてみたいと思っていたところ、この5月に島根県は
益田市へ行けとのオーダーを頂き、その隣町、山陰の小京都津和野まで行ってきた。

_RSD055-2
津和野城(本丸・三十間台) : 島根県鹿足郡津和野町後田→Map     日本百名城No.66
別名:三本松城 石蕗城   築城 :1295年 吉見頼行   改修:1600年 坂崎直盛  連郭式山城(霊亀山)
                          (撮影日 : 2015年5月)

鎌倉時代、沿岸防備のためこの地に地頭として赴任した吉見頼行が1295年より築城を
開始し、子の吉見頼直の代、1324年頃に完成させた中世山城である。
以後、吉見氏14代300年の居城だったが、戦国期に毛利氏の配下となり、1600年の関ヶ原の
合戦で西軍が破れ毛利輝元が萩へ追われると、吉見氏も津和野を去り萩へ移住した。
代わって入城したのが東軍に付いた坂崎直盛 で、石垣を多用した今に残る近世城郭へと
造り変え、三重の天守や出丸も築いた……と、ここまでが前段だろうか。

さて私はというと、業務を終えた翌朝、少し早めに宿を出て津和野城を目指した。
山頂までは、スキー場にあるような観光リフトで運び上げてくれるのだが、営業開始より
だいぶ早く着いてしまったので、登山道を登ることにした。
まだ朝露も乾かない山道を30分ほど登って出丸(織部丸)に到達、誰もいない古城を独り占めに
した。その出丸の石垣が結構しっかりと組まれていて、比高200m程もある山頂まで良く運び
上げたな!と感心したのだが、それはまだ序の口で、本丸に至って驚きと感動を新たにする
ことになる。

_RSD086
天守台石垣
山中にあってすっかり苔生してはいるが、美しい算木積みの石垣である。
関ヶ原からまだ時間的に遠くない頃とはいえ、あえて山頂の旧城を近世城郭へと作り直した
坂崎直盛という武将の臨戦態勢、その武辺が偲ばれるというものだ。
まだ誰も登ってこない山頂で一人、この石積みの美しさを見て築城から今日までの400余年を
想うと胸の熱くなるような感動を覚えるのであった。

ところでその坂崎直盛のことだが、知家、成正、成政ほか別名が多数あって戸惑うが、
実は戦国三梟雄のひとり宇喜多直家の甥にあたる 宇喜多詮家(あきいえ)のことである。
宇喜多の後継者で豊臣政権の五大老となる宇喜多秀家とは従兄という関係になるわけだ。
ただ秀家とは折り合いが悪かったようで、お家騒動を機に宇喜多家を去り徳川家康に付いた。
関ヶ原では東軍として功績を挙げ、その行賞がこの津和野藩三万石(のち四万石)であった。
この時、宇喜多姓を嫌った家康の命で坂崎と改名したのだという。
1615年大坂夏の陣でも千姫救出の手柄をたてたものの、翌年それが元での千姫事件で自害。
一代15年の津和野城主であった。武断派で直情型の武将だったのだろう。
 
話を城へ戻して、二の丸から回り込んで太鼓丸へ出ると再び視界が開け(最初の写真)、
さらに最高所の三十三間台へ上がると、ここが城下を一望出来る絶景ポイントであった。
_RSD056
三十間台から見た津和野城下    
津和野川沿いに石州瓦の赤い屋根が続く城下町。

_RSD060
人質郭と三の丸
坂崎氏が一代で改易となると亀井政矩(まさのり)が入城。麓に藩邸を築き城下町を整備、
江戸期を通して津和野藩、亀井家四万三千石は11代続き明治維新を迎えている。
小藩の常で武芸よりも学問に力を注ぎ、藩校養老館から幕末には森鴎外、西 周の逸材を
輩出した、とアッサリまとめてみたが、これが後段である。

_RSD067
三の丸から見る三十間台の石垣

_RSD119
馬場先櫓
(1856年再建の現存櫓)麓の津和野藩邸のあった櫓
二層の民家風なので、津和野の街並みに溶け込んでいて気をつけて見ないと
見落としそうだった。

_RSD178
藩校養老館跡 
津和野に丸一日滞在し名所旧跡も見て歩いたが、やはり圧巻は山頂の城跡だった。
それにしても吉見氏14代と亀井氏11代の狭間で一代で終わった宇喜多改め坂崎直盛、
戦国の世とはいえその68年の波乱の生涯をあれこれと想像してしまう城歩きとなった。
その後、山本有三の戯曲に「坂崎出羽守」があり、千姫事件を扱った歌舞伎の演目と
なっている事がわかった。しかし、いまのところ未見のままである。

城下のことは、また別の機会にお届けしたい。

では また