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水戸城(橋詰門):茨城県水戸市三の丸→map 別名:馬場城 日本百名城No.14
   築城主: 馬場資幹、築城年1190~1198年 改修者: 佐竹義宣  連郭式平山城
                            (撮影:2014年7月21日)
茨城県の県庁所在地である水戸市の水戸城
徳川御三家のひとつ水戸徳川家三十五万石の居城だったと云えば立派な城跡を想像して
しまうが、なんだか拍子抜けするくらい静かで何も残っていないように見えた!
何せトップの写真が一対の門で、これが高校の校舎を背景にポツンと立っているという絵に
なってしまっている。これは水戸城として唯一の現存建築物である橋詰門である。
形式は薬医門で、もとは本丸の表門であっただろう、と云われている。
明治の廃城後に市内の寺に払い下げられていたものを修復し現在地(本丸跡)に移築した
そうだ。その時、屋根も元の茅葺きから銅版葺きに変えられている。
もともと関東の城の特徴である石垣を使わない土塁の城なので、やはり見た目の派手さに
欠けるものがある、……と言ってないで、城の成り立ちをもう少し見ていくことにする。
 
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空 堀(本丸と二の丸の間)
今は鉄道(JR水郡線)が走っている。縄張り図や空撮写真を見ると、那珂川と千波湖に
挟まれた丘陵地帯に、本丸、二の丸、三の丸を直線状に並べた連格式平山城であることが
よく分かる。
 築城は古く鎌倉時代に馬場資幹(すけもと)が源頼朝の命を受けこの地に築城。馬場氏は
9代240年間続きそのため「馬場城」と呼ばれていた。
室町期になると新城主江戸氏 が7代170年続く。
 
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空 堀(二の丸と三の丸の間)
こちらは道路(県道32号線)が通っている。
秀吉の小田原征伐で秀吉側に付いた佐竹義重、義宣父子が常陸一国54万石を得て
江戸氏を追い、居城を太田城からここへ移し近世城郭へと改修した。
このとき城名も水戸城としている。
しかし、関ヶ原の戦い(1600年)において、佐竹義宣が徳川方へ付かなかったため、
戦後家康により出羽秋田へと追われましまった。(佐竹は秋田で久保田城を築城)
そして家康十一男の頼房が入り、以後は明治の廃城まで徳川御三家の居城となり、
御殿や三階櫓が建てられた。
三階櫓は代用の天守であり廃城後も解体を免れ昭和まで残ったが昭和20年米国の
無差別空爆により残念ながら焼失してしまった(またここもか!)
現在は学校も多く静かな文教地区となっている。

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弘道館・正門 (重要文化財)
さて、空堀と土塁と門がひとつだけでは寂しすぎだが、これがあってよかった!
幕末九代藩主徳川斉昭により開設された藩校・弘道館だ。戦火を逃れた建物が
現存しており、当時の水戸の学風を偲ぶことが出来る。

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正庁・至善堂 (重要文化財)
学校御殿とも言ったそうである。
対試場に面した縁側に「游於藝」(げいにあそぶ)扁額が上がっている。
多くの幕末の志士達に影響を与えた水戸学、尊皇攘夷思想の本拠であり、幕末史の
原点のようなところだ。
ただそれを語り始めたら幕末大好きBlogになってしまいそうだし、幕末マニアに
納得して頂けるようなことを語る知識を持ち合わせていない、残念ながら。
本来の水戸城跡からもやや逸れてしまいそうなので、今回はここまで。
ということになるが、実に静かな環境であり、この手の施設としては見学者に寛大な
開放の仕方に感心し、ついつい長居してしまったことをご報告しておきたい。
 
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正庁諸役会所
2010年公開の映画「桜田門外の変」〜原作吉村 昭(佐藤純彌監督作品)の冒頭に
登場した二大字「尊攘」を見ることが出来た。水戸藩医、松延年の書(安政3年)

水戸へは何度か行ったことがあったが、水戸城へは今回が初めて。
付近には学校も多く、ちょうど夏休みに入った日だったので実に静かな文教の地であった。
城跡も観光対策などはほとんど施されておらず、水戸徳川家の質朴さを想わせるものだった。
天守代用だった三階櫓を再建して観光客を集めよう、などという発想が微塵もないところに
逆に大変感動した次第である。
こういう藩風、いまの水戸気質(というのがあるなら)とても良い感じだなぁ 、と思った。

では また