桜満開の4月初旬、都内飯田橋駅から午前4時47分の始発電車に乗った。各駅停車の普通電車
を高尾、松本で乗り換えて82駅目で長野だ。11時9分、午前中に着くことができた!
世に言う「青春18切符の旅」である長野駅からバスに乗り30分で目的地の松代城に到着。
今回は武田信玄が築き、後には真田信之が移された北信濃の名城を歩く旅である。
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松代城(太鼓門橋詰門:復元) 長野市松代町松代44→Map  日本百名城No.26
      別名:海津城   築城:永禄3年(1560年)頃 築城主:武田信玄  輪郭式平城 
                          (撮影日:2016年4月8日) 
武田信玄が北信濃支配のために築いた支城で当初は海津城(貝津城)と呼ばれた。
軍師・山本勘助の縄張り(設計)と云われ、千曲川の自然堤防上にあり、三方を山に囲まれた
天然の要害に築かれた。信玄の時代は土塁と空堀の城であったはずだ。
築城は十二年に渡る武田と上杉の戦い「川中島の戦い」の真っ最中の永禄3年(1560年)。
武田軍の最前線基地であり、翌永禄4年(1561年)が最大の激戦となった第四次合戦である。
鞭聲粛粛夜河を過たる、と謙信が進軍する様を謡われるあの戦いだ。
結局五度の戦いでも決着は付かず、信玄は海津城に高坂弾正昌信を置き謙信への抑えとし、
西上野を攻略、天下統一を目指し西上の兵を挙げたが、上洛目前にして病没してしまう。

さらに天正10年(1582年)武田氏滅亡後は織田〜上杉〜豊臣系と城主が替わった。
江戸期に入り森忠政が城主の頃「待城」に、元和8年(1622年)真田信之が上田城から転封
されると「松城」となり三代真田幸道の時、幕命により「松代城」が正式名称となった。
松代藩真田家は信之以後十代 250年続き明治維新を迎えている。
武田、真田という戦国の名門の盛衰を見てきた信濃の名城「松代城」なのである。
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内堀と石垣(本丸東側)
今年のNHK大河は「真田丸」松代町(長野市)も「真田十万石の城下町 信州まつしろ」
とPR中だ。太鼓門前で解説板を読んでいると、ボランティアの解説員の方がいろいろと
補足してくれた。特に甲州流の築城術の特徴である丸馬出三日月堀に付いて熱心な解説を
頂いた。ただそこを強調したいのであれば、復元して見せてくれないと一般の観光客には何の
ことか分からないかも知れない。復元工事は継続とのことなので是非お願いしたいところだ。
個人的には今のこの松代城跡と信玄の川中島時代の位置は全く同一なのか?(多分違っている)
と訊いてみたかったが止めておいた(経験上面倒なことになることが多い)

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石垣 戌亥櫓台(本丸西側)
地震による歪みがあったため、抜け落ちた石材の補修工事が行われた。

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北不明門(復元:きたあかずもん)
本丸で4基の城門が復元された。発掘された礎石や、現存する古図面を元にした復元だ。

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土塁(復元・二の丸)

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土塁の埋門 (復元) :二の丸土塁に3ヶ所あったらしい

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武田信玄・上杉謙信一騎打ち像(八幡原史跡公園)
所謂「川中島古戦場」である。激戦となった第四次合戦時に武田軍が本陣を置いた
とされる。松代城からは4kmほど北に位置する。千曲川河畔の広大な公園である。

季節がら印象的だったのが桜の花である。
ご覧のように城跡全体に桜の木が植えられ、満開の桜と古城の石垣が無常観を呼び起こす
日本人好みの構図となる。松代城では本丸敷地内にまで桜の木が植えられている。
しかし、城跡の桜は明治の廃城後に植えられたもので、本来の城とは無縁のものだ。
個人的には城跡に桜の木はあまり期待しないし、時に遺構を見るのに邪魔だったりもする。
とはいうものの、今や各地の城跡は桜の名所となり市民の憩いの場として親しまれている。
廃城から過ぎし150年の年月を想えば城と桜はすでに日本人の心の風景として定着したと
云えるかも知れない。

最後に松代城櫓台の野面積み石垣と満開の桜という構図をもう一度見て頂きながら
次の目的地へ向かうことにしよう(18切符は当日乗り放題なのだ!)
次は川中島もう一方の将である、あの武将のあの城へ!
では また
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2022年に追加撮影
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