浅井氏の山城、近江の小谷城に登った翌日、安土は六角氏の「観音寺城」へ向かった。
安土山と峰続きの観音寺山、またの名を繖山(きぬがさやま)全域にわたって築かれた、
観音寺城 (平井丸虎口) 滋賀県近江八幡市安土町石寺→Map 日本百名城No.52
別名:佐々木城、繖山城 築城年:建武2年(1335年)頃 築城主:六角氏頼 山 城
(撮影:2016年11月)
本丸跡 虎口の石垣
江戸時代の古絵図に「本城」と記されていて、中核部分と考えられるが確証はない。
平井丸跡、池田丸跡などと同じく、周囲は石垣で囲まれている。
本丸跡 裏虎口
桑実寺(くわのみでら)に向かう位置にあり、食い違い虎口となっている。
観音正寺(かんのんしょうじ)
聖徳太子により繖山に建立された。鎌倉、室町期には佐々木六角氏の庇護をうけ隆盛する。
永禄11年(1568年)織田信長によって六角氏が滅ぼされると衰退、荒廃した。
慶長11年現在地に復興、西国三十三札所のひとつ(第32番札所)
登城・登山道について
観音寺城 (平井丸虎口) 滋賀県近江八幡市安土町石寺→Map 日本百名城No.52
別名:佐々木城、繖山城 築城年:建武2年(1335年)頃 築城主:六角氏頼 山 城
(撮影:2016年11月)
観音寺城という名は、山頂にある寺、観音正寺(中世は観音寺)に由来する。南北朝時代に
六角氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺ノ城郭」と太平記に記されたのが初見。
六角氏頼が観音寺に布陣したことを、「観音寺ノ城郭」と太平記に記されたのが初見。
以来、近江守護六角氏の居城として拡張、修復が進められた。
観音寺城が当主が居住する城として、石垣を多用した形になったのは1530〜50年代のこと
で、これは近世城郭の嚆矢と云えよう。
織田信長の安土城より早く石垣・石塁を用いた城であり、小谷城ほか数例を見るのみである。
石垣の構築には穴太坂本の石積み職人集団、穴太衆が関わったと伝わる。
(最近の調査で、信長はすでに岐阜城で石垣を積ませていたようである)
永禄11年(1568年)足利義昭を奉じて上洛する織田信長の勢いに、六角義賢(承偵)・義治父子
は観音寺城をすて逃亡、以後城は廃れた。
観音寺城が当主が居住する城として、石垣を多用した形になったのは1530〜50年代のこと
で、これは近世城郭の嚆矢と云えよう。
織田信長の安土城より早く石垣・石塁を用いた城であり、小谷城ほか数例を見るのみである。
石垣の構築には穴太坂本の石積み職人集団、穴太衆が関わったと伝わる。
(最近の調査で、信長はすでに岐阜城で石垣を積ませていたようである)
永禄11年(1568年)足利義昭を奉じて上洛する織田信長の勢いに、六角義賢(承偵)・義治父子
は観音寺城をすて逃亡、以後城は廃れた。
本丸跡 虎口の石垣
江戸時代の古絵図に「本城」と記されていて、中核部分と考えられるが確証はない。
平井丸跡、池田丸跡などと同じく、周囲は石垣で囲まれている。
本丸跡 裏虎口
桑実寺(くわのみでら)に向かう位置にあり、食い違い虎口となっている。
後年改修された可能性もあるとのこと。
各郭の間はこういう道でつながる
平井屋敷跡
確かに巨大な山城で、かつ早くから石垣を使用するなど先進的な城だったことが分かった。
しかし、何故六角父子は信長軍の来襲に支城(箕作城・和田山城)で破れたとはいえ、いち早く
本城の観音寺城を捨て甲賀へ逃げ去ったのか。これがずっと疑問だったし、名門の守護家にし
ては情けないことだ、と思っていた。
で、この頃の六角氏について多少だが調べてみると、以下のようなことらしい。
権勢盛んな六角高頼の頃、勢いの衰えた足利幕府に従わず、長享元年(1487年)に9代将軍
足利義尚に追討された(鈎の陣・まがりのじん) 。
各郭の間はこういう道でつながる
平井屋敷跡
確かに巨大な山城で、かつ早くから石垣を使用するなど先進的な城だったことが分かった。
しかし、何故六角父子は信長軍の来襲に支城(箕作城・和田山城)で破れたとはいえ、いち早く
本城の観音寺城を捨て甲賀へ逃げ去ったのか。これがずっと疑問だったし、名門の守護家にし
ては情けないことだ、と思っていた。
で、この頃の六角氏について多少だが調べてみると、以下のようなことらしい。
権勢盛んな六角高頼の頃、勢いの衰えた足利幕府に従わず、長享元年(1487年)に9代将軍
足利義尚に追討された(鈎の陣・まがりのじん) 。
この時、高頼は一旦城を捨て、山中にこもってゲリラ戦を展開し、後に城を奪い返した……
という六角氏の成功体験があったようだ。
という六角氏の成功体験があったようだ。
で、義賢・義治もその手を再現しようとしたのではないか ということである。
この時、せめて観音寺城の守りを固め、籠城して戦えば信長といえどもそう簡単にこの
山城を落とすことは出来なかったのではないか。その後に有利な条件で和睦と云う手もある。
しかし、時代の流れを読めず、過去の成功体験にすがってしまい、ついに返り咲くことなく
衰退してしまったわけだ。
いま六角氏関係の書籍を探しても数も少なく、わずかに絶版本が高値で取引されている状態だ!
この時、せめて観音寺城の守りを固め、籠城して戦えば信長といえどもそう簡単にこの
山城を落とすことは出来なかったのではないか。その後に有利な条件で和睦と云う手もある。
しかし、時代の流れを読めず、過去の成功体験にすがってしまい、ついに返り咲くことなく
衰退してしまったわけだ。
いま六角氏関係の書籍を探しても数も少なく、わずかに絶版本が高値で取引されている状態だ!
興味も湧いてきたので後日また当たってみたい。
観音正寺(かんのんしょうじ)
聖徳太子により繖山に建立された。鎌倉、室町期には佐々木六角氏の庇護をうけ隆盛する。
永禄11年(1568年)織田信長によって六角氏が滅ぼされると衰退、荒廃した。
慶長11年現在地に復興、西国三十三札所のひとつ(第32番札所)
登城・登山道について
まず観音寺山の登山道は多数(10本ほど)あるというが、一般的なお城ファン、たとえば
百名城スタンプラリーなどで城巡りをする人達の場合、麓から全て山登りとなると、やや
ハードルが高いのではないだろうか。頂上近くの観音正寺を目指して、マイカー、タクシー
利用というのが一番実効的攻略法だろう。二つのルートがあり、いずれも山道徒歩または
階段400段が待っている。観音正寺境内からは5分ほどで本丸跡に達する。
百名城スタンプラリーなどで城巡りをする人達の場合、麓から全て山登りとなると、やや
ハードルが高いのではないだろうか。頂上近くの観音正寺を目指して、マイカー、タクシー
利用というのが一番実効的攻略法だろう。二つのルートがあり、いずれも山道徒歩または
階段400段が待っている。観音正寺境内からは5分ほどで本丸跡に達する。
(*ちなみにスタンプ押すだけなら、麓の安土城資料館にも置いてあるそうだが……!)
『天下城』〜 佐々木 譲
主人公は穴太の石垣職人、城と武将が次々に登場するというなかなか貴重な本である。
『天下城』〜 佐々木 譲
主人公は穴太の石垣職人、城と武将が次々に登場するというなかなか貴重な本である。
平井丸に遺る石垣
山中にひとり、足元にシダの葉、蔦がからむ石積みをみていると想いは戦国の世へ
翔び、まさに「つわものどもが夢の跡」を感じる瞬間である。
山中にひとり、足元にシダの葉、蔦がからむ石積みをみていると想いは戦国の世へ
翔び、まさに「つわものどもが夢の跡」を感じる瞬間である。
素人の推測に過ぎないが、これも「品」の字に積み、間石は二個という典型的な
穴太積みではないだろうか。感じるもの大なり!
穴太積みではないだろうか。感じるもの大なり!
(PS:初期の観音寺城の石積みは、西座の手によるもの、との記載を見つけた。
西座とは六角氏の以前の拠点、金剛輪寺で寺普請を担った集団らしい)。
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最後にひとこと。
さて今回は初の観音寺城ということで、ポイントを押さえて概要だけ見る、
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最後にひとこと。
さて今回は初の観音寺城ということで、ポイントを押さえて概要だけ見る、
ということで終わってしまった。
戦国最大のこの山城の全貌を感じ取るには、もう少し時間をかけた山歩きが必要かな。
見逃している郭や石積みも多々あるようなので、次回への課題、また楽しみとして
残しておこう。近江へはまたすぐに行くことになりそうだし……。
ふもとでスタンプだけ押した人、居ませんか?
では また
残しておこう。近江へはまたすぐに行くことになりそうだし……。
ふもとでスタンプだけ押した人、居ませんか?
では また