100回目の城跡酔夢譚、その100城目は日本で最古の現存天守を持つ(と言われていた)
丸岡城だ!これは4年前、夏の暑い日の登城であった。
丸岡城 (天守:現存) 福井県坂井市丸岡町霞1-59→Map 日本百名城No.36
そして、2019年3月坂井市から委嘱を受けて調査をした丸岡城調査研究委員会から、
GoogleEarth
では、現存天守の中へ。
(上段)望楼部分の三階(天井の間)は柱や梁の木材と構造をそのまま見せている。高欄付きの
廻縁が一周している。現状は外に出ることはできない。もともと装飾的な廻縁だろうか?
(中段)一階入母屋破風内の「破風の間」と望楼二階の窓から見る「石瓦」と城下町。
(下段)一階に展示された丸岡城ジオラマと鉄砲狭間。
流石に現存天守。小振りとはいえなかなか見所の多い天守だと思う。
そして今日の一枚は、
天守台北側の石積み。一階格子出窓と突き上げ格子窓。
加工していない自然石の形と色合いが一番印象に残ったので撮影。
天守台の石積み
その後本能寺の変の後、清洲会議により勝豊は近江の長浜城に移され安井家清が城代に。
さらに柴田勝家が秀吉により北庄で滅ぼされると、丹羽長秀の城代として青山宗勝、慶長に
入り結城秀康の丸岡城城番として今村盛次と城主がめまぐるしく変わり、慶長18年本多成重
が入城する。寛永1年(1624年)成重は福井藩より独立し、丸岡藩4万3千石が成立した。
先の調査結果によれば、この本多成重の時に今の天守が築かれたことになる。
丸岡城だ!これは4年前、夏の暑い日の登城であった。
丸岡城 (天守:現存) 福井県坂井市丸岡町霞1-59→Map 日本百名城No.36
別名 :霞ヶ城 築城年:天正4年(1576年) 築城主:柴田勝豊 連郭式平山城
(撮影日:2016年7月)
先ずは、冒頭でも触れたこの天守にまつわる話から。
(撮影日:2016年7月)
先ずは、冒頭でも触れたこの天守にまつわる話から。
天正4年(1576年)柴田勝豊による築城だから、もしその時に建てられた天守ならこれは
現存天守の中でも最古の天守となり、次期国宝候補の呼び声も高かったのである。
現存天守の中でも最古の天守となり、次期国宝候補の呼び声も高かったのである。
確かに初層の大入母屋に望楼を載せた初期型天守は古風な佇まいを見せている。
ただ確実な史料がなく、江戸初期(慶長18年頃)の建造という見立てもあったのである。
ただ確実な史料がなく、江戸初期(慶長18年頃)の建造という見立てもあったのである。
そして、2019年3月坂井市から委嘱を受けて調査をした丸岡城調査研究委員会から、
「現存する天守は寛永年間(1624年~1644年)の建造と推定する」と結論が出された。
より新しい時代の建造だったという! 国宝が遠のく様な結果が残念ということかも。
より新しい時代の建造だったという! 国宝が遠のく様な結果が残念ということかも。
しかし、400年間もそこに有り続ける木造建築、その勇姿は見事である。国宝であるか
ないかで見方が変わるようなら、その人の感性こそ怪しいと言わなければなるまい!
(*丸岡城天守は昭和23年の福井地震により倒壊、昭和30年に元の部材を用いて修復された)
東側正面の石段を登って直接天守へ入る。一階外壁は漆喰塗籠に下見板張り。すそ部分に
雨水を流す水切り屋根が付く。入母屋破風に載る鬼瓦は屋根瓦と同じ笏谷石製。
では改めて、丸岡城の歴史をおさらいしておこう。
天正3年(1575年)、織田信長は一向一揆を平定し、越前北庄(きたのしょう)に重臣柴田勝家
を配した。翌年、柴田勝家は北庄城の支城として、一揆の拠点であった豊原寺跡に豊原城を
築き甥の柴田勝豊を置いた。勝豊は勝家の甥であるが、勝家に子がなく養子となっていた。
翌天正4年 、勝豊は4km西の丸岡の地に新たに城を築く、これが現在の丸岡城である。
独立式の天守は二重三階の望楼型。屋根瓦には、冬季の凍結による破損防止のため石瓦が
使われている。これは足羽山や一乗谷でとれる笏谷石(しゃくだにいし)である。石瓦は
約6000枚、重さ120トンあるという。震災寺には大部分が割れてしまったというが、
手作りで再製された。
ないかで見方が変わるようなら、その人の感性こそ怪しいと言わなければなるまい!
(*丸岡城天守は昭和23年の福井地震により倒壊、昭和30年に元の部材を用いて修復された)
東側正面の石段を登って直接天守へ入る。一階外壁は漆喰塗籠に下見板張り。すそ部分に
雨水を流す水切り屋根が付く。入母屋破風に載る鬼瓦は屋根瓦と同じ笏谷石製。
では改めて、丸岡城の歴史をおさらいしておこう。
天正3年(1575年)、織田信長は一向一揆を平定し、越前北庄(きたのしょう)に重臣柴田勝家
を配した。翌年、柴田勝家は北庄城の支城として、一揆の拠点であった豊原寺跡に豊原城を
築き甥の柴田勝豊を置いた。勝豊は勝家の甥であるが、勝家に子がなく養子となっていた。
翌天正4年 、勝豊は4km西の丸岡の地に新たに城を築く、これが現在の丸岡城である。
独立式の天守は二重三階の望楼型。屋根瓦には、冬季の凍結による破損防止のため石瓦が
使われている。これは足羽山や一乗谷でとれる笏谷石(しゃくだにいし)である。石瓦は
約6000枚、重さ120トンあるという。震災寺には大部分が割れてしまったというが、
手作りで再製された。
この公園辺りは堀と三の丸の武家屋敷があったところ。
ここで一度、縄張り確認のため正保城絵図を見ておこう。
ここで一度、縄張り確認のため正保城絵図を見ておこう。
本丸と二の丸が連郭式にならび、五角形の内堀が囲む。そのまた周りを武家屋敷を配した
三の丸が囲むという縄張りとなっている。さらに外堀まで含めても東西700m、南北1km
という小さめの城域である。
(国立公文書館蔵)
Google earthで現状を確認しておくと、本丸跡は樹木が生い茂ってはいるが、
ほぼ原型を留めているのが分かる。しかし、堀は埋められ、二の丸、三の丸には
今は民家が立ち並んでいる。
三の丸が囲むという縄張りとなっている。さらに外堀まで含めても東西700m、南北1km
という小さめの城域である。
(国立公文書館蔵)
Google earthで現状を確認しておくと、本丸跡は樹木が生い茂ってはいるが、
ほぼ原型を留めているのが分かる。しかし、堀は埋められ、二の丸、三の丸には
今は民家が立ち並んでいる。
GoogleEarth
では、現存天守の中へ。
(上段)望楼部分の三階(天井の間)は柱や梁の木材と構造をそのまま見せている。高欄付きの
廻縁が一周している。現状は外に出ることはできない。もともと装飾的な廻縁だろうか?
(中段)一階入母屋破風内の「破風の間」と望楼二階の窓から見る「石瓦」と城下町。
(下段)一階に展示された丸岡城ジオラマと鉄砲狭間。
流石に現存天守。小振りとはいえなかなか見所の多い天守だと思う。
そして今日の一枚は、
天守台北側の石積み。一階格子出窓と突き上げ格子窓。
加工していない自然石の形と色合いが一番印象に残ったので撮影。
天守台の石積み
その後本能寺の変の後、清洲会議により勝豊は近江の長浜城に移され安井家清が城代に。
さらに柴田勝家が秀吉により北庄で滅ぼされると、丹羽長秀の城代として青山宗勝、慶長に
入り結城秀康の丸岡城城番として今村盛次と城主がめまぐるしく変わり、慶長18年本多成重
が入城する。寛永1年(1624年)成重は福井藩より独立し、丸岡藩4万3千石が成立した。
先の調査結果によれば、この本多成重の時に今の天守が築かれたことになる。
丸岡藩は本多氏4代、有馬士8代で明治維新を迎え、城は天守を除き全てが破却された。
となかなか覚えきれないが、とにかく天守だけが四百年を生き抜いたということだ!
最後に別名の「霞ヶ城」についてだが、その昔、合戦になると「雲の井」という井戸から
大蛇が現れ、口から霞を吐いて城を覆い隠した!!という伝説の井戸が本丸に残っている。
その他、人柱お静の伝説など戦国伝説も伝えられているが、長くなるし、その辺は各自の
判断にて対応していただこうかな!
霞の井
全国に12ヶ所しか残っていない現存天守。この丸岡城でその全てに登城することができた。
私は百名城スタンプラリーに参加していないが、記念にそのスタンプ写真を撮っておいた。
となかなか覚えきれないが、とにかく天守だけが四百年を生き抜いたということだ!
最後に別名の「霞ヶ城」についてだが、その昔、合戦になると「雲の井」という井戸から
大蛇が現れ、口から霞を吐いて城を覆い隠した!!という伝説の井戸が本丸に残っている。
その他、人柱お静の伝説など戦国伝説も伝えられているが、長くなるし、その辺は各自の
判断にて対応していただこうかな!
霞の井
全国に12ヶ所しか残っていない現存天守。この丸岡城でその全てに登城することができた。
私は百名城スタンプラリーに参加していないが、記念にそのスタンプ写真を撮っておいた。
ちらつく雪の中で見た天守は相変わらず古武士のような風格があって
改めて「素晴らしい!」と思えたのであった。
改めて「素晴らしい!」と思えたのであった。