八月第二週に東北は青森県へ行った。
熱暑の東京に比べると温度、湿度ともぐっと低く快適で、まるで避暑に来たような旅に
なった。おかげで仕事もサクサクと片付いた。
冬の津軽を何度か訪れた事があり、その厳しさも僅かながら知っているだけに、
一瞬の夏にもそこはかとない儚さを感じてしまう……などと云うのは旅人の感傷だろうな。
地元の人はこれでもまだ暑くてたまらんのかもしれない。

で、撮影終了後スタッフと別れ、ひとりJR奥羽本線で弘前へ向かった。
前からずっと行きたいと思っていた街であり、列車が近付くにつれ気持ちも高揚した。
到着後、先ずは現存十二のうちでは日本最北の地に建つ天守を持つ弘前城へ。
 
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弘前城 (現存天守) : 青森県弘前市下白銀町1→Map 日本百名城No.4 
別名:高岡(鷹岡)城  築城:慶長16年(1611年)  築城主:津軽信枚
文化7年(1810年) 再建された現存天守
 
藩祖津軽為信が計画し二代信枚(のぶひら)によって建てられた五層の天守は1627年に
落雷のため焼失。文化7年(1810年)本丸の辰巳櫓(東南隅櫓)に装飾を施し代用天守とした。
そのため三重三階の層塔型で、やや小ぶりな外観となっている。内部は弘前城資料館。

城址弘前公園は桜の古木で埋め尽くされていて、開花の時期の美しさが想像される。
訪問時は夏の風物詩「弘前ねぷたまつり」も前々日で終わってしまっていて静かな
城下町散策となった。

「司馬遼太郎と城を歩く」~弘前城編で取り上げられている司馬作品は
「街道をゆく No.41 ~北のまほろば」~朝日新聞社
シリーズ中、特に印象に残る巻だ。
 
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雪の弘前城訪問記が良い。 
明治維新後の廃藩置県で一括して青森県と呼ばれるようになったこの地はもともとは津軽、下北、南部という異なる文化圏に色分けされているという話からはじまり、山内丸山遺跡に代表される縄文時代のこと、津軽出身の作家のことなど何処までも広がる作家の想像力につられて気持ちがぐっと青森に引き寄せられる。 






弘前で一泊。弘前公園から望む夕暮れの岩木山
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故郷の景色の中にこのような美しい山を持っているなんて、津軽の人々が実に羨ましい。

弘前での雑感を今少し・・・
夕食後、街を歩いてみると方向感を失って何度も道に迷ってしまった。
初めての土地でもしばらく歩けば、おおよその構造を把握する程度の方向感覚は
持っているつもりなのだが……。
この場合考えられるのが、街の構造を意図的に分かり難くしたのではないかということだ。
聞けば津軽藩の藩祖津軽為信は津軽の平野を、その領主南部氏から奪い取ったのだという。
為信は元もと南部氏配下の久慈氏の出で、津軽へ攻め込み自分の領土としてしまう。
大浦を本拠とし大浦為信から津軽為信となり、さらに豊臣秀吉に取り入って領土を安堵され
独立した大名に成り上がってしまった!(戦国の世では珍しくないことだが)
奪い取った者が一番恐れるのが奪い返されることなので、その城下町が自ずと他より防衛的
に構築されるのは当然だろう。
他所者に一気に居城を衝かれないような街作り、道造りになったのではないか。
その典型が、家康の江戸という城下町、今の東京かも。東京の道の分かりにくさは日々実感
している。
津軽民謡居酒屋からホテルまでのかえり道、あちこち迷いながら、またそれを楽しみながら
歴史の因果に思いを巡らせてみたのだが。
・・飲み過ぎて迷っただけじゃないのって? いや、それは……。

お後がよろしいようで

では また