今年最初の「城を歩く」は兵庫県伊丹市の伊丹城から。
伊丹城は有岡城とも呼ばれている。 JR伊丹駅の西側、有岡公園内に石垣、土塁、
井戸跡などが発掘、保存されているが、天守などの構造物のない城跡公園である。
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伊丹城(有岡城):兵庫県伊丹市伊丹1丁目
南北朝時代、伊丹氏により伊丹城として築城
天正2年(1574年)荒木村重により改修
有岡城と改称される

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 自然石をそのまま積み上げた野面積みの石垣

有岡城主だった荒木村重は波瀾万丈の生涯を送るのが常の戦国武将の中でも特に数奇な
生涯を送った武将である。
織田信長の配下として頭角を現したものの突然、主君信長に背きここ有岡城に籠城して
いまう。信長の大軍に攻められ城は落ちるのだが、村重本人は、妻子も一族も見捨てて
ひとり逃亡、秀吉の時代まで生き延びた。(後に千利休の高弟、茶人となる)
落城後、村重の一族郎党は信長により惨殺されてしまう。
戦国時代劇や小説には、良く取り上げられる事件なのでご存じの方も多いことだろう。
では、ここから先が新しい情報だ。

この荒木村重に3人の女子があり、そのうち一子は確かに信長により誅殺されたが、
二子は生き延びてその片方が摂津で堀八左右衛門親季に嫁いた。
その子、堀半兵衛忠次は後に福岡黒田藩の支藩「秋月藩」に仕官し、間(あいだ)姓を
名乗り、間家は代々続いた。
この家系の流れを何代か下ってゆくと、今、関東で写真師やってる、この私にたどりつくのだ。
(私は九州、熊本県の出身)これは1980年頃、私の叔父が調査し、少数ながら出版に至ったものを
基にしている。
まぁ家系というのは自分を頂点に逆三角形に、2倍ずつ増えてゆく血縁者のうち、
自分にとって一番都合の良い、また見栄えの良いところのみを取り出したものである。
逆に言えば都合や見栄えの悪いその他多数のことは見ない、見せないものでもある。
直系ということにこだわるのなら、直系ではないし、武家のことで途中で養子縁組なども
あったと思うので、まぁ人生の調味料くらいには感じているということだ。
そんなこともあって、一度来てみたかった伊丹・有岡城だった。
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それから、村重の有岡城時代にはもう一つ有名な歴史物語がある。
秀吉の参謀黒田官兵衛が地下牢に幽閉され手しまうというあの話だ。
その時、瀕死の官兵衛が見つめていた、生きる希望とは……。
それは黒田の城の時にでも。