_RSE0036
首里城(正殿:復元): 沖縄県那覇市首里金城町→Map  日本百名城 No.100
築城は14世紀末頃 主要城主:尚氏 1879(明治12)年一連の琉球処分により廃城
1990年代に遺構復元、2000年世界遺産登録(撮影日:2013年4月)

_RSD0216
歓会門(再建)内郭への入り口、正門。
沖縄のグスクの特徴である琉球石灰岩を積んだ垂直に近い城壁と石造拱門(アーチ型門)に
櫓が載る構造。首里城の城門は、内郭に九門、外郭に四門が配置されていた。

_RSE0047
瑞泉門
かつての琉球王国の首府は首里にあった。その王城は城壁で囲まれ、朱塗りの建造物、
赤瓦、装飾の龍など中国の影響が大きい城だった。しかし、今私達が見ている建造物も城壁も
すべて'80年代末から' 90年代に全ていちから復元されたものだ。なぜか。

「街道をゆく 6〜沖縄・先島への旅

Kaido6 司馬遼太郎が「街道をゆく」の取材で首里を
訪れたのは1974(昭和49)年 ということなので、
当時首里城跡はまだ復元されておらず、次のように
・・・・・・・・・・・・・・・・・
〜首里は、丘の上にある
戦前、首里の旧王城がいかに美しかったかについて
は、私はまったく知らない。
〜それらは、いまはない。戦禍による。
沖縄戦において、日本軍は首里を複郭陣地とした
ため、ここで凄惨な最終決戦がおこなわれ、
このため、兵も石垣も樹も建造物もこなごなに
砕かれた。

・・・・・・・・・・・・・・・・
米軍の砲火により徹底的に破壊、壊滅させられたということだ。


都市美としては奈良をしのぐほどだったという、司馬遼太郎は戦前の首里の町を想像し、
さらに沖縄民族、戦争の悲惨、軍隊の非情を述べた後、急ぐように八重山から与那国島へと
旅を進めている。

実は首里城について、戦前どころか幕末、琉球王朝時代の正確な記録というものがある。
記録を残したのは、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー、
あの黒船で日本開国を迫ったペリーだ。 
黒船来航と聞くと、アメリカから太平洋を横切って一直線に浦賀へやって来たというような
イメージを持ってしまうが、実はアメリカ東海岸から出航後、大西洋を渡り喜望峰から
シンガポール、香港上海、そして琉球経由という航路を取っている。
黒船は西から来たわけだ!

二度の来日過程おいて、薪炭補給と調査をかね那覇港に五度入港、首里王城への強引な
訪問もやっていて、まさに江戸で行う砲艦外交の予行演習のようなものだった。
その様子は公式記録としての「日本遠征日記」に残っている。

名称未設定 1幕末動乱の直接の引き金となった黒船来航に興味をそそられ、ペリー関係の本を読んでみたことがあり、琉球王朝の首里城についてもそのころ多少知るようになった。
日本人としては所どころ腹の立つ記述もあるが、軍人また特命全権大使としての正確な観察記録として貴重なものである。
実録の「ペリー提督日本遠征日記」から「ペリー艦隊大航海記」「黒船が見た幕末日本」のような解説書、小説の「日本開国への道」などだ。首里城とは一部接点があるだけなので、傲慢ペリー提督にしては素直に首里城を褒めている箇所だけを紹介しておく。


〜首里までの道中はずっと、非常に美しい景色に目を奪われどおしだった。

耕地は隅から隅まで完璧に手入れが行き届き、水田は実にみごとである。
〜これほど清潔な都や町を私は見たことがない(ペリー遠征日記より)
これで十分だろう。 
 
_RSE0011
園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)石門 
石門の背後の森が御嶽(首里城跡とともに世界遺産指定)
 
_RSE0008
久慶門  
正門の歓会門に対し、こちらは通用門として使われた。1983年の復元からすでに
30年が過ぎて古城の趣も感じられる。

さらに私事を重ねると、1980年の前後数年頻繁に沖縄へ通っていた。
目的地は沖縄本島ではなく石垣島のある八重山諸島だった。
首里へ立ち寄る機会は少なく、また当時の首里城跡は琉球大学の敷地となっていて、
復元された守礼門の他は特に観るものもなかったので、一度訪れた程度だった。
とにかく自分自身が城跡に興味がなかった頃のことだ。
城郭や歴史というものに僅かながら心惹かれるようになって後、
今回久しぶりに沖縄の地を再訪し、復元された首里城跡を歩き、海洋国家琉球から
沖縄戦と戦後史にまで思いを飛翔させることができ、当初の予想を超えた旅となった。
この調子でもうすこし先まで行ってみようと思った。

じゃぁ また
_RSE0018
守礼門(再建)